一枚の脳切片から続く問い

一人の患者から始まった問い――アルツハイマー病、最初の報告から120年

1906年11月3日、アロイス・アルツハイマーは、ドイツのテュービンゲンで開かれた第37回南西ドイツ精神科医学会で、一人の女性患者について報告しました。記憶や言葉の障害が進んだ経過と、死後の脳に認められた病変を示した発表です。後に彼の名で呼ばれる病気の、最初の報告として知られています。2026年で120年がたちました[1]。

患者はアウグステ・データー。1901年11月、51歳でフランクフルトの精神科病院に入院しました。夫に対する強い嫉妬に始まり、物忘れが目立つようになり、自宅の中でも場所が分からなくなっていました。物をあちこちへ運んで隠したり、危害を加えられると思って声を上げたりすることもありました。家族と暮らしていた日々が、病気によって変わっていったことがうかがえます[1、2]。

診察の記録には、彼女の様子が具体的に残されています。物を見せると名前は答えられるのに、直後にはそのことを忘れてしまう。本を音読すると行を飛ばし、文字を書くと同じ音節を繰り返したり、一部を落としたりする。質問の意味を理解できず、診察そのものに不安を示すこともありました。その一方で、歩行や手の動きなど、保たれている機能も記されています。アルツハイマーは、症状を一括りにせず、診察で確かめられたことを一つずつ書き留めていました[2]。

アウグステは1906年4月に亡くなりました。すでにミュンヘンへ移っていたアルツハイマーは、彼女の脳を調べる機会を得ます。肉眼では脳の萎縮が認められ、顕微鏡では神経細胞の脱落に加えて、特徴的な変化が見つかりました。銀染色を施した標本には、神経細胞内に太い線維が束になった構造が見え、大脳皮質には小さな斑状の沈着物が散在していました。現在の「神経原線維変化」と「老人斑」に当たる所見です[1、2]。

今日では、老人斑の主要成分はアミロイドβ、神経原線維変化の主要成分はタウと分かっています。ただし、アルツハイマー自身がこれらのタンパク質を同定したわけではありません。当時の報告は、染色した脳組織に何が見えるかを記述したものでした。その物質が何であり、どのように蓄積するのかが分かるまでには、さらに長い年月と多くの研究を要しました[2、3]。

11月3日の発表で、アルツハイマーは臨床経過と病理所見を示しました。しかし、医学史の記述によると、会場ではほとんど議論が起こらず、当時の関心は限られていたようです。現在の知名度からすると意外ですが、この発表が医学にとってどれほど重要になるかは、まだ見通せなかったのでしょう[1]。

報告は翌1907年、「大脳皮質の特異な疾患について」という論文になりました。1910年には、精神科医エミール・クレペリンが教科書に「アルツハイマー病」の名称を記しています。アルツハイマーが発表の場で自分の名前を付けたわけではなく、症例の報告と病名の成立には時間差がありました[1、4]。

当初、この病気は比較的若い人に起こる特殊な認知症と考えられていました。その後、高齢者の認知症にも同様の病変が認められることが明らかになり、病気の捉え方は変わっていきます。現在のアルツハイマー病という概念は、1906年の一度の発表で完成したものではありません。症例が蓄積され、脳の病変と症状との関係が検討されるなかで、形づくられてきました[2]。

原報を読むと、顕微鏡所見と同じくらい、診察の記述の細かさが印象に残ります。アウグステが何を答え、何に戸惑い、どのような動作ができたのか。そこには、病名だけでは伝わらない患者の姿があります。病気の仕組みを調べる研究が進んだ今も、こうした記録の価値は変わらないと思います。最初の報告から120年となる11月に、アルツハイマーの業績とともに、その報告に残されたアウグステの姿にも目を向けたいと思います。

参考文献

  1. Hippius H, Neundörfer G. The discovery of Alzheimer’s disease. Dialogues Clin Neurosci. 2003;5(1):101–108.
    https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3181715/
  2. Strassnig M, Ganguli M. About a peculiar disease of the cerebral cortex: Alzheimer’s original case revisited. Psychiatry (Edgmont). 2005;2(9):30–33.
    https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC2993534/
  3. National Institutes of Health. Alzheimer’s Disease and Alzheimer’s Disease Related Dementias(AD/ADRD).
    NIH資料(PDF)
  4. Alzheimer A. Über eine eigenartige Erkrankung der Hirnrinde. Allgemeine Zeitschrift für Psychiatrie und Psychisch-Gerichtliche Medizin. 1907;64:146–148.
    英訳の書誌情報:Clinical Anatomy, 1995

気温の下降が顕著なためか、雨のためか、複数の仕事が落ちてきているためか、研究がなかなか進みません…明日は回復するといいのですが😢

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