「解剖実習を終えて」医学生からの言葉

感動と緊張のあいだで学ぶ
2026年度 医学類2年 K.M.
ついに解剖実習が始まる。私は待ちに待った解剖実習が始まる期待と、それ以上の不安で胸がいっぱいになった。ドキドキしながら予習をした。初めてネル布を開くとき、あたりが静まり返ったような気がした。緊張していた。私はご献体のお顔のそばにいて、ネル布を開いたとき、目が合った気がした。その瞬間、なぜだかとてもほっとした。優しそうな方だと思った。私たちが勉強して、失敗して、成功して、学んでいく過程を受け止めてくださる方だと感じた。お顔を見ながら、今日からよろしくお願いします、と心の中で挨拶をした。
ほっとしたのもつかの間、私はすぐに壁にぶつかった。高校生のころから本で読んでいた上、予習もしっかりした。右手でメスを入れながら左手の指で開こうとすれば、真皮と脂肪組織の間でパカッと開くはず。開かない。どうしてだろう。皮膚を引っ張る力は強く、メスはそっと当てるだけ。うまくできない。勉強した通りにやっているつもりだったが、思うようにいかなかった。知識だけじゃだめなんだ。
教科書で勉強するのとは違う、剖出してある標本を見るのとも違う、自分で剖出することでしか学べないことがある。自分の手で探して見つけることで頭の中で構造がイメージできるようになった。自分で剖出したところの構造は記憶に刻まれている。一度壊してしまったらもう二度とわからない血管や神経の走行。きれいに剖出して全体像が理解できたときの感動と、壊してしまったらもう二度とわからないという恐怖が表裏一体になって、ピンセットを持ってご献体に対面する私に緊張感を与えていた。
血管や神経の走行はアトラスの図とは違っていた。はじめの頃は、ここにあるはずなのに見つからない、と混乱してばかりだった。神経と動脈の見分けがつかないこともあった。毎日手で触れ、観察を繰り返すうちに徐々に慣れ、結合組織と神経、血管を見分け、剖出できるようになった。教科書と違う分岐を見つけ、この動脈がここで分岐してこの筋肉を栄養しているのか、とわかった瞬間が、解剖実習で一番楽しい瞬間だった。
思うようにできない悔しさに辛い気持ちになることも何度もあった。それでも、たくさんの感動を味わい、学ばせていただいた解剖実習は、私にとって一生忘れることのないかけがえのない経験となった。
ご献体いただいた故人とそのご家族、実習にご尽力いただいた皆様に心より感謝申し上げます。医学教育のためにとご献体いただいた故人のご期待に応えられるよう、これからも努力を続けてまいります。

目の前のご献体から学ぶということ
2026年度 医学類2年 M.A.
解剖実習を終えた今、一番感じているのはご献体いただいた方とそのご家族への深い感謝と尊敬の気持ちである。
初めて解剖実習室に入った時のことを忘れることはないだろう。率直にいうと、実習に対する期待よりも不安や緊張を感じており、ただただ怖かった。ご献体くださった方がどのような思いで私たちのためにお身体を提供してくださったのかを想像すると、私はその意思に応えられるだろうかという責任の重さを感じた。しかし、それと同時に、その尊い意思を無駄にしてはならないと思い、6週間という短い実習期間で一つでも多くのことを学ぼうと決意した。
実際に解剖実習をする中で特に印象に残ったのは、人体は多様性に富んでいるということである。私は予習として実習書を読んで、わからないことをアトラスで調べるということを行った。それでも実際に実習で観察できたことは教科書通りではないことが多かった。今でも鮮明に覚えている出来事がある。十二指腸の観察の際、予習では膵管が直接開口すると学んでいた。しかし、実際には私が担当したご献体に変異があって十二指腸に胆管が直接開口していると先生から教わり、ハッとした。無意識のうちに目の前のご献体を教科書に当てはめようとしている自分に驚いたと同時に、深く反省した。そして実習初日に「皆さんの先生は目の前のご献体です」と言われたことを思い出した。解剖とは、今までのような教科書に書いていること、講義で習ったことを暗記して学ぶような学問ではなかったのだ。それは、これから学習していくすべての学問に対しても言えるのではないかと思う。将来、医師として患者さんと接する時、患者さんを教科書に当てはめようとするのではなく、一人一人をしっかりと見て向き合うことが重要であると身をもって感じることができ、それは大きな学びであると感じる。
一方で、実習を終えた今、私には心残りに感じていることもある。実習期間中は日々の学習や疲労の蓄積もあり、目の前の課題に取り組むことで精一杯であった。しかし実習を終え、座学で解剖学を学べば学ぶほど、解剖実習中には気づかなかった疑問や見えていなかった視点が次々と自分の中に湧いてきた。その度に、もう一度ご献体を前にして学習ができたらと思わずにはいられない。解剖実習がどれほど貴重で、多くの学びに満ちた経験であったかを肌で感じている。様々な人の協力があって私は今医学を学ぶことができているということと感謝の気持ちを忘れてはならないと思った。
最後に、ご献体いただいた故人ならびにそのご家族の方々の尊い意思に対し、深い敬意を抱くとともに、心より感謝申し上げます。この実習で得た学びは解剖学にとどまらず、今後の人生において必ず糧になると考えています。今回学んだことや感じたことを決して忘れることなく、みなさまの意思に応えられるよう、日々精進したいと思います。

黙祷の時間が教えてくれたこと
2026年度 医学類2年 N.K.
解剖学実習を迎える前、私はご遺体と向き合うことに大きな不安と緊張を感じていた。教科書や授業で人体について学んできたものの、実際にご献体された方のお身体に触れながら学ぶ経験は初めてであり、自分が冷静に実習に取り組めるのかという戸惑いもあった。一方で、医師を目指す者として人体を深く理解するために必要な学びであるという覚悟も持って実習に臨んだ。いざご献体と対面すると、感じていた不安や緊張は自然となくなり、将来医師となる医学生として、解剖に真摯に取り組んでいく覚悟が確固たるものになるのを感じた。
実習を通して最も強く感じたのは、人体は教科書通りではないということである。教科書では整然と描かれている血管や神経も、実際には脂肪や結合組織の中に埋もれており、その走行を確認するだけでも大変な作業であった。また、筋肉や血管の太さ、神経の分岐の仕方などには個体差があり、一つひとつ丁寧に観察しなければ正確に同定できないことを学んだ。剖出作業では、目的の構造を傷つけないよう慎重に進める必要があり、解剖学的知識だけでなく、集中力や観察力の重要性も実感した。
特に印象に残っているのは、初めてご献体にメスを入れた瞬間だ。これから解剖実習が始まっていくことをさらに実感する瞬間であり、敬意をもって解剖を進めていかなければならないと改めて認識した。また、班員と協力して構造物を探し出した場面も心に残っている。意見を出し合いながら確認を進めることで理解が深まり、一人では気付けなかった発見も多くあった。実習の開始時と終了時の黙祷も印象的だった。実習中は学習に集中していても、黙祷の時間になると、自分たちが学ばせていただいている相手が、生前を生きた一人の人間であることを改めて意識した。納棺の際には、長期間学ばせていただいたご献体の方との別れを実感し、感謝と敬意の気持ちが自然と湧き上がった。
この実習を通して、医学生としてだけでなく、将来の医師としての自覚も強くなった。人体は単なる知識の対象ではなく、一人ひとりの人生を支えてきたかけがえのない身体であることを学んだ。また、死は医学の学びの終着点ではなく、次の世代の医療者を育てるための始まりにもなり得ると感じた。将来医師になった際には、患者さんを病気としてではなく、一人の人間として尊重し、その人生や思いにも寄り添える医療者でありたいと考えるようになった。
最後に、このような貴重な学びの機会を与えてくださったご献体の故人と、その尊いご意思を尊重し支えてくださったご遺族の皆様に、心より感謝申し上げます。また、実習を支えてくださった先生方、技術職員の方々にも深く御礼申し上げます。この実習で得た知識と経験、そして命への敬意を忘れず、今後の学習と医療人としての成長に活かしていきたいと思います。

感謝を胸に、一人ひとりへ向き合う
2026年度 医学類2年
実習初日、ご献体を覆うビニール袋と布を開いたとき、私はこれからご献体と対面するのだという緊張と、この先やっていけるだろうかという不安を感じていた。実際に対面した後も緊張や不安は残っていたが、それ以上に、ご献体くださった方とご遺族の皆様に対する感謝の気持ちが大きかった。ご自身が献体を希望されることも、家族の誰かが献体されることを受け入れることも、医学教育のためとはいえ、大切な家族の身体を解剖に託すことも、決して容易な決断ではないはずである。そのことを考えると、この解剖実習で一つでも多くのことを学び、将来よき医師となれるよう努力しなければならないという使命感を強く抱いた。
ご献体の観察を進める中で、人体は必ずしも教科書通りではないことを実感するようになった。私の班のご献体では、血管の分岐に破格が多く見られた。その一つとして、腹腔動脈から下横隔動脈が分岐している所見について、発生学に基づいた説明を受ける機会があった。一度聞いただけでは十分に理解できなかったが、友人に教えてもらったり、自分でも調べたりする中で、少しずつ理解が深まっていった。目の前のご献体に見られる構造から、その構造が生じるまでの発生過程、さらには生物の進化にまで考えが広がっていくことに、解剖学の奥深さを感じた。
解剖実習は体力を要し、試問など大変な場面も多かった。それでも何とかやり遂げることができたのは、温かくご指導くださった先生方、職員の方々、そして同級生に恵まれたからだと感じている。実習最後の一週間に体調を崩し、一日実習を欠席してしまったときには、申し訳なさや不甲斐なさ、不安や焦りを感じた。しかし、先生や教務の方から体調を気遣うメールをいただき、班員や友人からもメッセージをもらえたことで、落ち着いて休養を取ることができた。そのおかげで翌日には体調も回復し、再び大学に向かうことができた。その日の実習では、班員の三人がご献体についてさまざまなことを教えてくれた。体調不良によって学習に遅れが生じ、試問に対する不安もあったが、三人の支えのおかげで乗り越えることができた。
生命は非常に複雑で精緻な構造によって支えられていること。人の身体は一人ひとり異なること。だからこそ、目の前の患者さん一人ひとりと真摯に向き合わなければならないこと。そして、日々周囲の人に支えられていること。この六週間で、ここには書ききれないほど多くの学びを得た。貴重な学びの機会をいただいたことへの感謝と、その責任の重さを忘れず、患者さん一人ひとりに向き合える医師となれるよう、今後も日々精進し続けたい。
最後になりますが、ご献体くださった方とご遺族の皆様、熱心にご指導くださった先生方、どのような疑問にも優しく答えてくださった先輩方、学びの環境を整えてくださった職員の方々、そして私たちの学びを支えてくださったすべての皆様に、心より感謝申し上げます。

畏敬と感謝を選び続ける
2026年度 医学類2年
解剖学実習が始まる直前の土日、私は無限の中にいるかのようだった。亡くなった方の身体をメスやピンセットを使って解剖をするなど、経験則から考えるにあり得なかった。あり得ないことが始まる。その中身のない実感は、私を中空へ、上下左右も、時間すら理解できない無限へと誘った。
無限は、しかし破けた。実習室に漂うホルマリンの香りと、ネル布に包まれて並ぶご献体の数々が今を突きつけた。新しい認識がつくられていることを実感した。
あの日つくられていると感じた新しい認識は、それから六週間をかけて、少しずつ像を結んでいった。
臨床における医学とは「N=1の学問」であると教わった。教科書に載っていない血管の走行を見つけ、「これは重要ではないということでしょうか」と先生に尋ねたとき、そんなわけがない、と返された。人体の形態には、それぞれ破格、つまり個性がある。人によって異なりうる構造にメスを入れるのだから、医学はただ知識を蓄えればよいのではなく、汎化的でありながら個人に特化した医師にならなければならない。この言葉は、その後の実習全体を貫く指針となった。
学ぶことを目的に、これほど長い時間をかけて人体の内部と向き合う機会は、おそらくこれが最後だろう。それにもかかわらず、いや、だからこそ、臨床に出た先で、無数の個性を持つ一人ひとりの身体に応え続けなければならないという事実は、率直に言って恐ろしかった。いったいどれほど学べば、そこへ辿り着けるのか。けれどもその怖さは、そのまま学びへの意欲へと変わっていった。目の前のご献体が示す一つひとつの破格は、かつてそこに確かに生きた誰かの、固有性の証にほかならなかったからである。
この実習で学んだのは、解剖学だけではない。「医療者としての倫理観」についても、深く考えさせられた。冒頭に記したとおり、非現実であったはずの人体解剖は、日を追うごとに現実へと変わっていった。その中で私は、自分の中の「ごく当たり前の倫理観」がどこまで残っているのかを、常に問い続けていた。法に認められ、人を救う立場となる者の正当な行いだと教えられているから正当なのだ。そう自らを納得させてしまえることに、ふと立ち止まる瞬間もあった。解剖が非道徳だと言いたいのではない。ただ、かつてなら考えられなかった行為を受け入れている自分に気づいたとき、人の倫理観とは、環境によってこれほど容易に姿を変えうるのだと実感したのである。
だからこそ、とも思う。慣れや正当化に流されそうになるときほど、目の前の方が「ご献体」である前に、一人の人間として生きた存在であったという事実を、意識して手放してはならない。畏敬と感謝は自然に湧いて当然のものではなく、自らの意思で選び取り、抱き続けるべきものなのだと知った。
こうして最後まで学び続けられたのは、人体と向き合う姿勢そのものを示してくださった先生方、そして実習の環境を整え、ご献体を丁寧に管理してくださった技術職員の方々に支えられてのことです。そして何より、自らの意思で献体という尊い選択をしてくださったご本人の遺志と、その意思を尊重し、送り出してくださったご家族に対して、心より感謝申し上げます。

慰霊塔の前で誓った精進
2026年度 医学類2年 門田美乃里
解剖実習は医学生にとって一つの大きな関門である、ということは先輩や、医師である父に何度も言われてきたことであった。この実習を果たして私が乗り越えられるのだろうか、ということを常に不安に思いながら、実習初日を迎えた。ずっと心の準備はできないままであった。しかし、初めてご献体と対面し、お顔を拝見したとき、本当に始まったのだ、この方と約2か月向き合うのだと、心が決まったのを覚えている。
いくら予習しても足りないと感じる毎日であった。予習したつもりでも、いざご献体の構造を見てみると、何が何なのか分からなくなってしまった。実際のご献体の構造は、アトラスに描かれているものとは色も、位置も、数もかなり異なっていた。アトラスや実習書には書かれていない構造もあった。他の班のご献体をのぞいてみると、そこにはまた違った構造があり、何を基準に学べばよいのか、さっぱり分からなくなってしまった。教科書などに沿って座学をしているだけでは、多種多様な人の構造に今後対処していけない、と身にしみて感じた。
実習期間中、同じ班の人や先生には助けてもらってばかりであった。そのたび、本当に悔しく、そして何より、ご献体くださった方とそのご遺族の皆様に申し訳なくてたまらなかった。何度も大学内の慰霊塔に行っては、「ごめんなさい」とその日の行いを反省できるだけ反省し、せっかくご献体くださったのだから、より一層精進します、学べるだけ学び尽くせるようにいたします、と祈って、明日はどうしたらよいかを必死で考えていたことを覚えている。
先日、病院実習で実際の手術を見学する機会があり、そのとき執刀されていた医師に「これは何静脈?」「この静脈はどこに合流する?」「なぜこの血管を圧迫する必要があると思う?」などと聞かれた。解剖学をしっかりと学べていれば答えられるものであったが、私は言葉に詰まってしまった。あの解剖実習の2か月は何だったのだろう、と本当に悔しく、やるせなく、何より申し訳なかった。
果たして私はあの方を解剖させていただく資格があったのだろうか、全力を尽くし切れただろうか、学び尽くせただろうか、と未だに疑問に思ってしまう。あの2か月、私は決して怠慢だったわけではなく、毎日必死に取り組んでいたつもりである。それでも、まだ学び足りなかった。せめて、あの2か月が無駄にならないように、解剖実習が終わった今でも学び続けること、あのとき分からなかったことを理解できるようになることを目指して、今後も真摯に勉学に励もうと思う。
ご献体いただいた故人と、そのご遺族の皆様、本当に、本当にありがとうございました。座学だけでは分からないこと、人の構造は多種多様であること、自分の能力の限界まで挑戦できたことなど、あの2か月の実習は私にとって大変貴重な経験になりました。この経験を無駄にしないよう、今後とも勉学に全力で取り組んでまいります。

支え合いの中で深まった学び
2026年度 医学類2年 H.S.
解剖実習初日、実習室に入るとホルマリンの鋭い臭いがした。布とビニールを取り、ご献体と対面すると、先輩から聞いていた解剖実習がついに始まるという覚悟ができた。ご遺体を前にし、圧倒されてしまわないように身構えていたが、いざ対面すると、そこには安らかな表情を浮かべられたご遺体があり、緊張が少し和らいだ。それと同時に、医学の知識も技術も未熟な自分が、これからうまく解剖できるのかと心細くなった。
実習が進む中で、重要な神経や血管が密集する場所では、その神経や血管の走行の目星をつけ、周囲から丁寧に脂肪や結合組織を取り除いていく緻密な作業の重要性を学んだ。また、人間の身体には個体差があることを強く実感した。私たちの班では、下横隔動脈が腹腔動脈から分枝しており驚いた。また、隣の班では非常に薄かった広頚筋が、私たちの班では明瞭に同定できるほどの厚みと大きさを持っていた。他の筋肉や組織も非常に立派だった。取り除いた組織片の量にも班ごとに大きな違いがあり、私たちの班では男子二人がかりでないと持ち運ぶことが困難な重量であったが、隣の班では容易に持ち運ぶことのできる量だった。こうした個体差から、ご遺体がかつて唯一無二の人生を歩まれたかけがえのない個人であったという事実を再認識させられた。
解剖実習中に心に残ったことは、毎日班員同士で励まし合ったことだ。その支えがあったからこそ、私たちは無事に剖出を終えることができた。一人でこの膨大な領域を担当していたら、適切に解剖をし、深い学びを得ることができなかっただろう。四人で一人のご献体を協力しながら解剖したからこそ、チーム医療の大切さを学ぶことができた。医療の現場では、一人のミスが患者の生死に直結する。しかし、それぞれの医療従事者が自己研鑽し、強固な連携のもとで適切な医療を施せば、患者さんを助けられる可能性は格段に高まる。今回の実習が、そのことを教えてくれているように感じた。
同時に、知識を蓄えるだけでなく、確かな技術を磨く必要性を痛感した。私は実習中にいくつか神経と血管を傷つけてしまった。生きている患者さんを手術する際にそのようなことがあったら、患者さんの生死やその後の日常生活に負の影響を及ぼしてしまう。今回は、先生や技術職員の方に自分の同定が誤っていないか確認することが多かったが、今後は自立して的確な同定ができるよう、主体的に知識と技術を積み重ねていきたい。
顔も名前も知らない医学生の学びに身を委ねるという選択は、生前のご本人にとって、そして見守るご遺族にとって、どれほど大きな葛藤と尊いご決断であったか計り知れない。医学教育の発展と私たちの成長のためにご献体くださった故人と、その想いを支えられたご遺族には、感謝してもしきれない。また、私たちが終始適切な環境で学べるよう指導してくださった先生方や技術職員の方々に、心より感謝申し上げたい。

知識から、人と向き合う学びへ
2026年度 医学類2年 E.R.
「先生のご家族に会ってみたいなあ。どういう人たちと、どういう人生を歩んできたんだろう。」
友人のその言葉を聞いてはっとした。実際の身体の構造を一つ一つ確認しながら慎重に解剖を進めていくという、限られた時間の中での手順を進めることに必死になり、私はいつの間にかご献体をただの「人体」として見てしまっていた。しかし友人の言葉を聞いてそんな自分に気づいた瞬間、自分の未熟さと不誠実さに強い自己嫌悪を覚えた。ご献体くださった方の尊い意思に向き合うべきであるにもかかわらず、その重みを十分に受け止めきれず、心構えが足りないまま、ただ実習をこなすことに意識が向いていた自分に失望した。実習が始まる前、私はご献体と向き合うことに不安や緊張を感じ、初めて対面した時は戸惑いもあった。だが実習が進む中でその緊張に慣れる一方で、敬意をもって向き合うという、最も大切な姿勢までもが薄れていってしまった。自分の目の前にいらっしゃるのは単なる「人体」ではなく、私たちと同じように喜んだり悲しんだりして長い人生を歩んでこられた一人の人間だということを改めて意識しなくてはならないと思った。
解剖学の教科書やアトラスで勉強していて、人体の構造の複雑さに驚かされた。目に見えないほど細い血管や神経が全身に張り巡らされ、筋肉や臓器がそれぞれ機能して一人の身体を構成する。このような複雑で精巧な構造が私自身や家族、周囲の友人、街ですれ違う人、全ての人の身体の中に存在すると思うと不思議に感じた。同時に、人間が生きていることの尊さを強く感じた。さらに、実際にご献体を拝見しながら実習を進めていく中で、アトラスのように構造がはっきりしているわけではなく、立体的な位置関係も同時に考えながら見つけなくてはならない難しさを実感した。加えて、同じ名称の構造でも個体差があり、必ずしもアトラス通りではなかった。はじめはアトラスだけを頼りにしていたためその違いに戸惑い、どうしたらよいかわからなかったが、よく考えてみれば人それぞれ顔や性格が異なるのと同じように身体構造にも個性があり、それさえもその人らしさの一部のように感じられた。アトラスを見ることも大事だが、ご献体くださった方ご自身と向き合うことが最も大切だと学んだ。また、解剖学で学んだことが単なる知識にとどまらず、一人の人間の身体の構造と結びついたように感じた。
今回の解剖実習を通して、医学生として将来医師になるという覚悟が少しずつ芽生えたと感じる。医師になるということは、知識や技術を身につけるだけにとどまらず、目の前の患者が一人一人異なる人間であることを理解して尊重することであると学んだ。ご自身の身体を未来の医療者の学びのためにご献体くださった故人の方、そしてその意思を受け入れてくださったご遺族の皆様に心から感謝申し上げたい。今後の学習や実習においても、ただ知識を覚えたり課題をこなしたりするのではなく、その先にいる一人の人間を意識しながら学ぶ姿勢と、人の身体に向き合う敬意と感謝を忘れず、これからの学びに取り組みたい。

尊い学びを医師への歩みに変えて
2026年度 医学類2年 梅澤のりか
解剖実習が始まる前日から、自分自身が人体を解剖することに対して大きな緊張を感じていた一方で、どこか現実味がなく、他人事のように感じていた部分もあった。実習当日、解剖実習室へ入ると、ネル布とビニールに覆われたご献体が目に入り、その光景に大きな衝撃を受け、自然と背筋が伸びた。ご献体のお顔を拝見したとき、その方にも一人の人生があり、大切なご家族がいたこと、そしてご遺族の方々もさまざまな思いを抱えながらご献体として送り出してくださったことを強く実感した。この実習を通して、ご献体してくださった故人やご遺族の思いに恥じないよう、多くのことを学び、医学生として成長していかなければならないと感じた。
先生方から実習初日より何度も言われていた「皆さんの先生は目の前にいるご献体です。」という言葉は、実習が進むにつれ理解が深まった。実際、ご献体によって血管や神経の走行が異なっていたり、病変による身体の変化があったりし、教科書だけでは決して学ぶことのできない多くのことを直接学ばせていただいた。アトラスや解剖実習の手引きを用いて予習をしても、実際の人体は想像していたものとは異なり、混乱したと同時に、人体の精巧さを強く実感した。そして、これほど個人差があるにもかかわらず、それぞれの臓器や筋肉が正確に機能していることに感銘を受けた。人体が複雑であることは知識として理解していたが、実際に自分の目で確認したことで、その複雑さをより深く理解することができた。
実習を通して、ご献体の病変部位を観察したことが特に印象に残っている。病変部位は正常な組織とは明らかに異なっており、その恐ろしさを改めて実感した。将来、医師としてこのような病気と向き合っていくことを考えると、気がひるむような思いにもなった。しかし、病変を実際に観察したことで、解剖学や病理学を学び、病態を正しく理解することが適切な診断や治療につながることを強く認識した。
実習に慣れてきて、どこか作業のようになってしまっていた時、先生から「ご献体の方にも皆さんと同じように家族がいて、普通に生活していたことを忘れないでください。」という趣旨のお話をいただいた。その言葉を受け、自分と同じように人生を歩んできた方の身体を解剖させていただいていることを改めて考えさせられ、より一層気を引き締めて実習に臨んだ。この経験を通して、医師になってからも患者さんを単なる「患者」ではなく、一人の人生を歩んできた「人」として向き合う姿勢を忘れてはならないと感じた。
最後になりますが、尊いお身体を私たちの学びのために預けてくださった故人、そしてその帰りを長い間待ってくださったご家族の方に心より感謝申し上げます。
また、熱心にご指導くださった先生方、技術職員の方々、先輩方、多く支えてくれた班員、そして解剖実習を支えてくださったすべての方に心から御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

不安から感謝へ、そして医師への決意
2026年度 医学類2年 H.Y.
「医学部では、2年生になると必ず解剖実習がある。」
私が高校生の頃、医学部に進学したいと両親に伝えたとき、初めてこのことを知った。人の身体を解剖するなど、当時の私には全く想像もつかず、怖いと感じたことを今でも覚えている。それでも医師になりたいという思いは変わらず、解剖への不安を心のどこかに抱えながらも、医学部合格に向けて懸命に勉強した。
幸いにも医学類に進学することができたが、解剖実習が近づいてきた5月上旬頃、私は緊張と不安からひどい腹痛に襲われた。自分と同じように人生を歩んでこられた方のご遺体を解剖させていただくことを考えると、胸が痛み、最後までやり遂げる自信が持てなかった。
解剖実習初日、緊張と不安でほとんど食事も喉を通らないまま、解剖実習室へ向かった。友人や家族から励ましの言葉をもらい、解剖実習をやり遂げる覚悟はできていたつもりだった。しかし、それは自分自身にそう言い聞かせていただけだったのかもしれない。
ご献体と初めて向き合ったときの緊張感は忘れることができない。その瞬間、私たちの学びのために尊いお身体を提供してくださったことがどれほどありがたいことなのか、そして解剖を通して学ばせていただけることがどれほど恵まれた機会であるのか、心の底から実感した。そして私は、この貴重な機会を必ず学びにつなげることで、そのご厚意に報いようと決意した。
解剖が始まると、思い通りにいかないことも少なくなかった。手引書やアトラスで十分に予習していても、神経や筋肉の同定に苦戦することがあった。そのたびに班員と話し合いながら剖出を進めていった。実習を通して、血管や神経の太さ、筋肉の厚さ、臓器の重さなどには個体差があり、人体は必ずしも教科書どおりではないことを身をもって実感することができた。
そして、私にとって特に印象深かったのは納棺式である。6週間にわたりご献体から学ばせていただき、お別れの日を迎えたとき、私は解剖実習初日、緊張と不安でいっぱいだった自分を思い返していた。あの日と比べて、私はどれほど成長できただろうか。将来、患者さんの尊い命を預かる医師になることへの自覚と覚悟、そして命を大切にすることの意味を、以前よりも深く理解できたと感じた。
一人ひとりの命には、その人を大切に思う家族がいて、かけがえのない人生がある。だからこそ、誰一人として軽んじてよい命など存在しないのである。また、自分と同じように人生を歩んでこられた方のご献体から学ばせていただいたことへの感謝を、決して忘れてはならないと改めて強く感じた。今回の解剖実習を通して、患者さん一人ひとりの命に真摯に向き合い、丁寧な医療を実践していく覚悟を持つことができた。
最後に、ご献体くださった故人ならびにご遺族の皆様に、心より感謝申し上げます。この実習で得た学びと感謝を胸に、将来、医師として多くの患者さんの命と健康に貢献することで、少しでもご厚意に報いていきたいと思います。そして、実習をさまざまな面で支えてくださった先生方にも、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

初日の覚悟を胸に、学び続ける
2026年度 医学類2年 H.S.
解剖実習が始まるまで、正直に言って、不安だらけだった。これまで亡くなられた方と接する機会がほとんどなかった私が、果たしてご献体と対面できるのか。6週間にわたって毎日、実習と予習・復習が続くが、最後までやり切れるのか。そして、そもそも自分のような解剖学の知識がほとんどない者が、ご献体に触れ、解剖させていただいてよいものなのか。
解剖実習室に入り、まず感じたのは、ご献体の圧倒的な存在感だった。実習室にずらりと並ぶご献体が目に入り、それまで感じていた不安がより一層強くなった。しかし、それぞれの席に着き、掛けられていた布をめくり、これからお世話になるご献体と実際に向き合うと、自然と不安がどこかへ消えていった。目の前の方は、私よりも何倍も長い年月を生きてこられた方であり、そのような方が私たち医学生のためにご自身のお身体を託してくださったのだと思うと、生半可な気持ちで実習に臨むことはできないと感じた。そして、ご献体くださった方とそのご家族のご意思を無駄にしないよう、ご献体から学べることはすべて学び取ろうという、一種の覚悟のような気持ちが湧いてきた。
それからの6週間は、本当にご献体から多くのことを学ばせていただいた。筋肉がどのようについているのか、血管や神経がどのように走っているのか、臓器がどこにあって、どのような形をしているのか。これらは確かに教室や図書館で一度学んではいたが、実際に自分の目で見て、手で触れることでしか学べないことは多々あった。そして、実際の人体は座学で学んだものとは異なるところばかりで、驚かされた。血管や神経は、図譜とは異なる走行をしていることが多かった。臓器の大きさや形も図譜とは違うことが多く、中には図譜とは全く形が異なる筋肉もあった。隣の班をのぞいてみると、そこにもまた違いが多く見られ、驚いた。これらの経験を通じて、人間の身体は一人ひとり異なるのだということに改めて気づかされた。座学では標準的な人体の構造を中心に学ぶが、こうした個体差があることを念頭に置かなければ、実際に患者さんと向き合ったとき、思いがけず危険にさらしてしまうかもしれないと、身の引き締まる思いがした。
もちろん、つらいことも多かった。太さ数ミリの神経や血管を追うには相当な根気と集中力が必要だったし、筋肉や臓器、骨を剖出する作業では体力も消耗した。そして、実習が終わってへとへとになっていても、帰宅後には膨大な量の予習・復習が待っていた。しかし、途中で投げ出すことなく毎日頑張れたのは、初日に感じた、ご献体くださった方とそのご家族の思いを無下にすることはできないという強い気持ちがあったからである。
これからも医学の学習は続いていくが、この解剖実習で学んだ多くのことを生かしていけるよう、勉学に励んでいきたい。また、ご献体くださった故人とそのご家族、そして先生方や技術職員の方々をはじめ、解剖実習に携わってくださったすべての皆様に、改めて深く感謝申し上げたい。

解剖実習を通じた心の成熟
2025年度 医学類2年 F.T.
実習初日、実習室に入ると、ビニールに包まれたご献体が整然と並んでいて、衝撃を受けたのを覚えている。その時、私はまだ自分がご献体と向き合う覚悟と自覚がなかったのだと気づいた。その後、ネル布を外し、ご献体の顔を見た時、その方の生前の人生とご家族のことが頭に浮かんできた。その時、私はこれから6週間、ご献体やそのご家族が持つ「医療に貢献したい」という思いに応えられるよう、感謝しながら全力でご献体と向き合い、ご献体から得られる知識は全て得ようと心に決めた。その後6週間を通して、多くのことを学び、勉学の面でも精神の面でも成長することができた。
勉学の面で最も印象に残っているのは、人体構造を実感的に理解することができたということである。アトラスや教科書で予習してきたことが、解剖中に実際に目で見て、触れることによって「こういうことだったのか」と腑に落ちる瞬間が多くあった。その瞬間ごとに、立体的な構造や臓器同士の繋がりを現実のものとして理解することができた。また反対に、アトラスと全く違うところから動脈が分岐していたり、あるはずの構造がなかったりと、頭で想像していたことと異なるということも多くあった。その経験から、人体の構造は一人ひとり異なるため、教科書に載っていることが全てだと思わずに、ご献体から得られる情報をもとに学ぶことが重要だと感じた。この経験は、医師として一人ひとり異なる人間を診るという基本的な姿勢を築くきっかけとなった。
勉学の面以外でも学んだことはたくさんある。その中でも、医学を学ぶ上で「周囲の人に感謝することの大切さ」を学べたことが心に残っている。解剖実習を通して、ご献体になることを決断してくださった方やそのご家族の意志の強さを痛感した。もし自分が家族の死に直面した時、快くご献体になることを勧められるかというと、自信を持ってできるとは答えられない。ご献体のご家族も同じで、たくさん悩んだ結果、未来の医療のためを思ってご体を私たちに託してくださったのだと思う。そう思うと、言葉にできないほどの感謝の気持ちと尊敬の念が込み上げてきた。今日の医療は、今までのような尊い意志を持った方々のおかげでここまで発展してきたのだと改めて感じた。将来、医療の現場で働く身として、常にそのような方々に思いを馳せて感謝しながら、精進していこうと思う。
最後に、ご献体いただいたご本人およびそのご家族、実習を支えてくださった先生方に感謝を申し上げます。この貴重な経験を胸に、今後も医学の学習に精進していきます。

一期一会
2026年度 医学類2年 M.A.
6月19日の最終試問、同月23日の試験を経て解剖学の学習コースが終了した。すべてが終わった今、改めて解剖実習のことを振り返りたい。
解剖実習について初めて話を聞いたのは1年生の4月だった。新歓で先輩の話を聞き、「本当に人体の構造を自分たちの手で学ぶのだ」と、医学類に入学したことを実感したのを覚えている。2年生になり、いよいよ解剖実習が始まるという5月上旬、私はご献体に向き合い、落ち着いて実習に取り組めるのだろうかという不安があった一方で、どこかでまだ見ぬ世界に対して胸を高鳴らせていたように思う。連日の座学中心の日々から打って変わって、実習で埋め尽くされた時間割。どのようなことをするのか想像もつかず、少しの不安と大きな期待が入り混じった気持ちで解剖実習室に足を運んだ。それが、解剖実習の始まりだった。
入室した瞬間、独特の緊張感と、これまで経験したことのないにおいに、身の引き締まる思いがした。これから始まる実習に真摯に向き合うことができるだろうかと、自分自身に問いかけているような気持ちになった。先生方からオリエンテーションを受け、いよいよご献体と対面する時間を迎えた。初めてご献体と向き合った瞬間、正直、これまでにない緊張と戸惑いを覚えた。亡くなられた方とこれほど近くで向き合うのは初めてであり、命の重みを改めて実感した。しかし、その気持ちを落ち着かせ、もう一度ご献体に向き合ううちに、ご献体くださった故人とそのご家族の深い思いに気づかされた。多くの方々の尊いご意思とご理解に支えられて自分たちの学びがあることを、頭だけでなく、身をもって理解した。
実際に実習が始まると、膨大な量の予習と復習に追われ、班員に教えてもらいながら解剖を進めることも多くあった。細かい部分の剖出に何時間もかかることがあり、身体的にも精神的にも実習に取り組む大変さを実感した。血管の走行や臓器の大きさなど、教科書どおりではない部分があるだけでなく、他の班のご献体との違いも数多く見つかり、「同じ人は一人として存在しない」ということを解剖学的な観点からも実感した。
解剖実習が終わった日に思ったのは、「今の知識や技量があれば、さらに多くのことを学べたのではないか」ということだった。実習の初めに戻ることができれば、また違った発見があったのではないかと考えたのだ。しかし、今の知識や技術を与えてくださったのは、紛れもなく目の前にいてくださったご献体であり、私にとっての「先生」だった。この方に出会えたからこそ、今の自分がある。ご献体と私たちの出会いは、まさに「一期一会」だったのだ。
最後になりますが、ご献体くださった故人とそのご家族をはじめ、ご指導くださった先生方、ならびに技術職員の皆様、TAとして支えてくださった上級生の方々、そして解剖実習を支えてくださったすべての方に、この場をお借りして感謝申し上げます。故人のご冥福を心よりお祈りするとともに、いただいた学びを今後の医学の勉強に生かしていきたいと思います。本当にありがとうございました。

解剖実習を通して見出した敬意と責任
2025年度 医学類2年 H.N.
実習の、いざ始まるその少し前から、私は冷静なプロであろうと努めていたように思います。
ご遺体を解剖するということは、献体なされた故人及びそのご遺族からの特別のご厚意、さらにその尊い意志によってのみ、倫理的、法的に許容されるものであることが、ショートレクチャー等通して、また自身の考察を通して理解されました。しかし、あくまで許容されるのは、法的に言えば、遺体損壊の許容ということであって、確かな制限の下でのみ許されるものです。この制限というのは、ご献体された方やその家族のみならず、解剖者自身の心理を補強する役割があるように感じています。
一週間目、初めてご遺体と対面した時、わかりやすく言語化できるようなショックや、その他感謝以外の特別な感情は確認できていないように思えました。ただ、お顔を拝見し、少しあざのある肌や、怪我の痕をみて、確かに生きていた人であることは忘れないようにしようと決心した覚えがあります。ただ、敬意を持ちながらも、ヒト型のものとして扱う方が気持ち的には楽なのかもしれないと考えることもありましたが、私はむしろ、人であったことの認識が薄れた瞬間、自分は道徳的観点からの犯罪者になってしまうような気持ちで、緊張していました。
おそらく、この板挟み的な状況は、相当なストレスだったのでしょう。その一週間、(特に初めの一、二週間ですが、解剖実習を通して)早く帰って休みたい気持ちがありましたが、どうしても友達と一緒に過ごして、たとえば少しご飯に行ったりしなければ、なんだか、正確に表されているかわかりませんが、どこか怖くて、友人と笑ってから帰りました。強迫されるような具合もあったと、今、思い出しています。ストレスがわかりやすく、一番初めに露出したのは一週目の休日でした。二時間かけて帰宅した後、25時あたりに就寝。土曜日、起きたのは16時、19時にはまた眠りについていました。三時間しか私の土曜日はありませんでした。日曜日もほとんどを寝て過ごしたことを日記に書いています。
それでも実習は進んでいき、少々慣れが出てきた頃、友達の発言が、ご遺体の保存に対しての姿勢が、少し緩んでいる様子、それに対して何も思いつかない自分がなんだか気疎くありました。
実際は自分がそう感じただけで、一切誰も妥協していなかったかもしれません。ただ、そう思ってしまうくらいのストレスを感じるほど、真剣に取り組めていたのだと自分を少しは褒めたいです。
実習も終わり、納棺式の日、棺をみて、家族という存在が鋭く、意識されました。解剖が続くに従って集中する部位が臓器へと移り、人であった意識が薄れていたのかもしれません。勝手ながら自分の中で献体なされた方の人生が想像され、一層感謝の念が強くなりました。自分自身や家族を思い、必ずこの解剖学実習を、自分の人生において、ひいては私が関わる人に対して、活かさざることのなきようにしたいと思います。

協働と探究の六週間 ― 人とともに学び、からだに学ぶ ―
2025年度 医学類2年 A.T.
6週間にわたる解剖実習を終えて、実習前の自分より学術的、そして人間的に成長したことを実感しております。医学類に入学してからの今までの勉強は、講義を聞いて既知の事項を確認または暗記したり、それらを用いて実験したりするようなものが多く、どちらかといえば受動的な学習でした。一方解剖実習では手引書や資料はあるものの、手探りの状態で、自分で学びながら進めていくような能動的な学習です。教科書に書いてある内容がすべて正しいわけでもなく、血管の走行や筋肉の分布など、個人によって異なるものも多く存在します。それらを踏まえながら目的のものを探しているうちに気づきや学びを多く得ることができました。また、体の構造の共通点や相違点は非常に興味深いものでした。末梢の血管や神経の分布には多くのパターンが存在し、個人で大きく異なることもある一方で、生命維持にかかわるような中枢の部分の構造は違いが少ないことが多いということを学びました。将来臨床に出た際の、患者さんひとりひとりに寄り添った医療の必要性を身をもって感じることができました。精密でありながら、同時に臨機応変に大胆に働くからだと、それが維持する生命について学ぶことができました。実習を通して、体や生命についてより深く知りたいという気持ちが目覚め、今後の学習への意欲が高まりました。
また、解剖実習自体の特性や実習中の他の班員との協力によって人間的にも成長することができました。ご遺体を解剖させて学ばせていただくのは非常に医学教育として重要ではありますが、最初は慣れておらず、抵抗感や疲労感を感じました。実習を進めていくうちに、生命や死について、医学について、人生について深く考えさせられました。これらについて考えることは医療に従事するにあたって必要不可欠であり、将来の医療従事者としての責任感や使命感を感じることができました。また、班員と協力しながら作業を分担し、時には教えあい議論する経験も貴重なものでした。自分一人だと自信がないことも、切磋琢磨しながら共に学ぶ学友たちと協力することで深い学びにつなげていくことができました。何もかもを先生に聞いて受動的に学ぶのではなく、自分で課題を見つけ、今まで学んできたことを踏まえながら考察を重ね、議論を通して学びを深めていくプロセスが刺激的でした。今後の学習の指針としたいと思います。
このような経験をさせてくださった、ご献体くださった故人とそのご家族の尊い意思に非常に深い感謝の念を表すとともに、故人のご冥福をお祈りいたします。

解剖実習を終えて
2025年度 医学類2年 M.K.
解剖実習が始まる前、私は期待と不安が入り混じった感情を抱えていた。緊張はしていたものの、覚悟はできているはずと言い聞かせていた。しかし、実際に初めて解剖室に足を踏み入れた時、今までに経験したことのない独特な空気感に圧倒されたことを覚えている。実習台を目の前にして医療倫理について時間をかけて学ぶ間にも緊張が途切れることはなかった。ご献体のネル布を開けて手足に包帯を巻く時、手のひらに触れた瞬間に、ご献体いただいた方が生前触れた人や物に思いが及んで言葉にできない重みを感じた。私には死を身近に感じた経験はほとんどなかったが、これからたくさん向き合っていく死を考える大きな一歩になったと思う。目の前の「先生」だけでなく、送り出してくださったご家族や社会全体の思いの上に今の学びが成り立っているのだと責任を強く感じた。
実習中は予復習の難しさに何度も直面した。前日にアトラスや手引き、実習書で時間をかけて準備しても、実際のご献体と向き合うと、頭で描いていた構造とはまったく異なっていたからだ。座学では知り得なかった人体の一つひとつの構造の個別性を身をもって体験した出来事だった。
また、同じ実習班の仲間と協力し合いながら学びを深められたことも、忘れがたい経験となった。アトラスを見せ合い、疑問を共有し声を掛け合いながら剖出を進めたことで、医療を支える協働の大切さを学んだ。精神的にも肉体的にも楽ではなかったが、だからこそ一緒に取り組んだ時間が印象深く残っている。
解剖実習の最終日は、最終試問と納棺式が続いて行われた。ネル布とビニールで丁寧に包ませていただいていると、初日にネル布を開けたときの光景が頭をよぎった。目の前にあるご献体の姿はその時とは全く違っていて、それだけの時間をかけて学ばせていただいたことを改めて実感した。
納棺式の前夜、果たして私は先生であるご献体から余すところなく学びきることができただろうかと考えた。正直に言うと、気持ちに反して、知識や技術の未熟さを感じた場面ばかりが思い出され、悔しくなった。それでも、こうして得た学びをどう生かしていくかが自分のこれからに問われているのだと思う。人の体は繊細でありながら複雑に保たれていて、知識だけでなく、命と向き合う姿や医師としてどう在るべきかなど多くのことを学ばせていただいた。これから先、一人ひとりの命と誠実に向き合えるよう努力を重ねていきたい。最後になりますが、ご献体くださった方、そのご家族、そして実習に関わってくださったすべての方に心より感謝申し上げます。貴重な学びの機会をありがとうございました。

解剖実習を終えて
2025年度 医学類2年 Y.U.
解剖実習は、医師を目指す上で最も重要な過程の一つであり、入学前から強い期待を募らせていた。実習の初日、緊張感とともにビニールとネル布をめくりあげてご遺体と対面したとき、今からこのご遺志に報いることができるよう一つでも多くのことを学ばなければならないという思いに駆られた。はじめのうちは責任感が重く、興味本位で勉強をするのではなく、学ばせていただくという意識で解剖実習の期間中を過ごしてきた。
実際にご遺体に向き合ってみると、あまりの構造の複雑さに圧倒された。本物の人体は、教科書やアトラスなどに書かれた平均的な構造に当てはまらないことがほとんどであった。例えば、静脈が左側にあったり、両側の卵巣静脈が腎静脈へ派生していたりしていた。他の班のご遺体を観察させていただいても、血管の太さ、走行、脂肪の量、臓器の大きさ、病気の有無など、誰一人として同じではなかった。これから学んでいくことは、生物学のように体系化された理論だけを追求するだけでなく、個性があるものに向き合うものなのだろう。
実習では悪戦苦闘しながらも、器官や組織を目で見たり、自分の手触れで確かめたりした経験が血肉となり、臨床の現場において大いに活きるだろう。解剖学のカリキュラムを一通り終えただけでは、一人一人個性がある患者さんを理解できるレベルには到底達していないと感じている。実習が始まる前よりも、むしろ分からないことが増えたように思う。解剖学には終わりがなく、生涯を通して学び続けるものなのだろう。
最後になりますが、医学の発展に寄与するという崇高なご意思のもとお身を託されました故人とそのご遺族の皆様に対し、心より敬意と感謝を申し上げます。そして、実習が円滑に進むようご準備いただき、ご指導を賜りました先生方並びに技術職員の皆様、共に学んできた班員の皆様に厚く御礼申し上げます。

解剖実習を終えて
2025年度 医学類2年 A.S.
「亡くなったら何もできないし火葬されちゃったら骨しか残らないけど、亡くなった後も自分の体を使って学んでもらえたら、余す所なく生きた感じがして良いね」
解剖実習が始まってすぐ、母が言っていた言葉だ。私はこの言葉にハッとさせられた。「故人は私たちに学んで欲しくて、献体になるという決断をしてくださったのだ」と。解剖実習が始まったばかりの頃、ご遺体を解剖することに対し私は何か後ろめたさや恐怖のようなものを感じていた。授業の一環であり、法に触れることはないと分かってはいたが、専門的な医学の知識や技術もない我々が、本物の人体にメスを入れることなど許されるのだろうか、と。しかしこの言葉を受け、私を縛り付けていた「何か」が解かれた。専門的な医学の知識もない我々だからこそ、分からないながらももがき、その過程で多くのことを学んでもらうために、故人とそのご家族はご遺体を提供してくださったのだ。そんなご献体の尊いご志志に与り、少しでも多くのことを学ぼうと、6週間貪欲にもがいた。
人工知能や科学技術が発達した今日、本物の人体でなくても解剖実習はできるのではないかという意見もあるかもしれない。しかし、6週間の解剖実習を終えた今、やはりこの解剖実習には意味があるのだと私は思う。血管の分岐や筋肉の大きさは個体差があり、教科書やアトラスとは全く違う。起始停止や位置関係、その人の持っていた疾患を総合的に鑑みて同定を行うというのは、教科書を超えた学習であり、これはやはりこの世界を「生きた」故人からしか学べないことだと思う。また、医師としての自覚をもつという意味でも重要なのではないか。何にも変えることのできない1人の人間のご遺体を解剖させていただくというのは責任の大きなことであると同時に、自分のまたは大切な人の身体を提供してまでも我々に学んでほしいと、様々な人が期待してくださっているのだと身が引き締まる思いがした。
6週間の解剖実習を通して得たのは、単なる解剖の技術や知識だけにとどまらない。チームで協力して作業を行う協調性、毎日朝から晩まで立ちっぱなしで解剖を行う体力と集中力、思うようにいかなくても諦めない忍耐力、日々学んだことを復習し明日の実習に備えて予習をする勉強の習慣ーー。答えのない問いに向き合い、目先の試験のためではない学習をするという、今までの「勉強」とは明らかに異なる学習をした。間違いなく私の人生の中で最も濃い6週間であり、信じられないほど多くのことを学び、成長した。言葉では尽くせないこの全てが将来医師になる上でのかけがえのない学びであり、糧になると確信している。
最後にはなりますが、本実習を遂行させてくださった全ての方々に心より感謝申し上げます。ご献体いただいた故人とそのご家族、先生方、先輩方、職員の方々、本当にありがとうございました。

解剖実習を終えて
2025年度 医学類2年 Y.I.
1か月半の解剖実習が始まる前は、ご遺体を解剖することに対する不安があったが、それと同時に、実際に人体を見られることに対して強い関心を抱いていた。教科書を見ながら、実際の人体がどうなっているのだろうと、貴重な時間を過ごせることへの感謝を感じていた。
実習1日目、解剖室で白い布に覆われているご遺体を前にして、私はそれまで考えなかったご遺族の方や故人の思いを想像し、緊張を感じることになった。献体をしてくださる故人の尊い意思に対して考えが及ばなかった自分を恥じ、深い感謝の気持ちを常に持ちながら実習に取り組むようになった。
実習の時間は驚くほど速く過ぎていった。帰宅してからは就寝するまでアトラスや手引きと向き合い、実習室では先生であるご献体と向き合う生活が続いた。毎日アトラスと実習の手引きで予習と復習を繰り返しても、複雑な人体の一部分しか理解し習得できないことを実感し、非常に悔しく思った。機能や臨床と結び付けた学びは無限にあり、疑問は次々にわき、人体の面白さ、複雑さ、精巧さを毎日実感した。ご献体から学ばせていただける時間を無駄にしてはならないと熱心に勉強し続け、気が付けば休憩時間も実習室で構造を観察するようになった。
解剖をするなかで、自分の学習をもとに想像していた構造と、実際の構造が異なっていたことに驚いた。耳や腎臓などでは、肉眼では判別できないほど小さな構造の中に、複雑な機能があることが非常に不思議で、人体のつくりの精巧さに感動を覚えた。思えば解剖実習は驚きの連続であり、実際に目で見ることでしか学べないことが多くあった。個人によって体のつくりが異なるということを学べたのも貴重な経験であった。動脈の分岐、筋肉の発達具合などはご献体によって全く異なっており、ご献体が単なる人体ではなく、故人の生活、人生を強く映し出しているように感じた。自分が将来向き合うのは人体ではなく一人の人であり、治療法も一人ひとりによって異なること、患者さんを理解する重要性を学んだ。
解剖実習の最終日、初日とは全く異なった姿になったご献体を見て、多くのことを学ばせていただいたことに対する感謝を強く感じた。また、故人やご遺族の方々がご献体を決意なさった背景には、将来多くの患者さんを救ってほしいという医師に対する思いや期待が込められていることを感じ、責任を自覚した。1か月半という短い時間だったが、記憶に鮮明に残り続けるであろう、貴重な時間だった。
最後に、ご献体してくださった故人、ご遺族の方々に、貴重な経験をさせていただいたこと、感謝申し上げます。将来医学に貢献できるよう、精進いたします。

解剖実習を終えて
2025年度 医学類2年 A.F.
解剖実習は、医学生としての私の意識を大きく変えた体験でした。これまで、医学類に入学してから基礎医学のコースで様々なことを学んできましたが、その多くは教科書や授業試料に書いてある『事実』を学ぶことにとどまり、実習も「結果を予測し、指定された実験手順に従ってデータをとり、なぜそのデータが得られたか考察する」という形態が主でした。しかしそれらの経験を愚直に当てはめても解剖実習では歯が立ちませんでした。
実習初日、張り詰めた空気の中でご献体のビニールを開けたことを覚えています。そこにいたのは「人」でした。生きた証が感じられる肌のしわ、いまにも開きそうな目や口を見て、今から人の体にメスを入れるのだと自分が選んだ道の険しさを思い知りました。
そこからの6週間はめまぐるしく過ぎていきました。少しでも早く起きて実習書やアトラスで予習・復習し、その日の流れをイメージし、休み時間も放課後もご献体と向かい合いつづけ、気づけば0時を過ぎている、そんな日々の積み重ねでした。しかしいくら勉強しても手順通りうまくいくことは稀でした。ご献体にそれぞれ変異や見た目の違いがあり、目的の神経や血管が見つからない焦り、保存すべき構造を壊してしまった挫折などで徐々に追い詰められていました。実際の人体は一つとして同じではなく、決して教科書通りにはいかないという厳しさを味わいました。この教訓は将来医師として働く中で何度も感じることになるのだと思います。
厳しさの一方で、人体の精密さに感動もありました。どういった発生で今の構造ができ、各器官がどこでつながり、どのように協調し、時として疾患となるか。それをただ教科書で読むのではなく自分の目で見る体験は、一生に一度の大変貴重なものでした。頭蓋からの迷走神経が喉頭や心臓に枝を出しつつ腹部につながること、心尖と肝臓・横隔膜の位置関係など興味深い構造を学ぶのに6週間ではとても足りないと感じました。また、腎臓の断面を見て基礎医学で習ったネフロンのミクロな構造と肉眼で見たマクロな構造が繋がり、今までの学びがより臨床に近づいたように思いました。
解剖実習を通して、ご献体から本当に多くを学びました。解剖が進むにつれ、ご献体が初日の「人」の姿から構造としての「ヒト」になっていくのを感じ、黙祷のたびに「この方はどんな思いで献体くださったのだろう」と想像していました。納棺の日、棺に書かれたご献体のお名前を見て、ご本人やご家族の思いをあらためて感じました。 このような貴重な学習機会は、それを支えてくださった先生方、技術職員の方々、先輩や友人、そして何よりご献体とそのご家族おかげで得られたものであり、心より感謝いたしますとともに、解剖実習で得た知識と経験をもとにより一層医学の勉強に励みたいと思います。

解剖実習を終えて
2024年度 医学類2年 O.M.
解剖実習初日、初めてご献体にメスを入れたとき。今まで一度もメスを握ったことのなかった私は、ご献体のお顔の目の前で初めてメスを持ち手が震えた。あのときの言葉に表すことができない不思議な気持ちを忘れることはできない。毎日実習室に行き剖出を進めるにつれて、ご献体は「 人」というより「 対象」のようになっていった。目的の組織や構造を観察するために、脂肪や結合組織などを上手に取り除くことができるようになった。メスを使うことへの抵抗もなくなり、継続すればどんなことにも慣れ、どんなことでもできるようになるのだと感じた。しかし、初日に感じた気持ちをふとした瞬間に思い出すことがあり、私は医学生として人体解剖をしていて将来医師になるのだ、と実感させられた。実習期間中、残しておくべき構造を誤って失ってしまうことが何度もあったが、将来手術を行うときのこ
とを考えると少し怖くなった。自分の手の動きの1ミリのずれが、最悪の場合患者さんの命を奪うことにもなるのだと身をもって実感した。
手の解剖をしているとき。皮を剥ぎ、脂肪などを取り除き、筋肉や神経の走行を観察した。私は右手でメスあるいはピンセットを持っていたが、左手をご献体の手の甲に添えて剖出を行った。このとき、ご献体は少し前まで生きていらっしゃった「 人」であると強く感じた。心なしか手の温かさを感じ、まるで母や友人の手を握っているかのような感覚だった。ビニールとネル布を開いて初めてご献体と対面したときよりも、ご献体が「 人」であるという感覚を強く感じた。人は死を迎えても人なのだと思った。解剖実習は私にとって死と向き合う機会にもなり、死というあまりに未知なものに対する恐怖は少し薄れ、それ以上に生命がいかに尊いかを実感した。
納棺のとき。手の解剖をして以後、胸腔「 腹腔を開き、頭部を離断し、あらゆる構造を取り除いたため、ご献体は最初の姿とは大きく異なったものになっていった。また、6週間にわたり毎日解剖を行い、私に慣れと余裕が生まれ、人体解剖をしているのだという感覚が薄れてしまっていた。しかし、最終諮問を終え納棺の時がやってくると、私の感情は再び大きく動いた。体の各構造をできるだけ元あった状態にして、ビニールと布で丁寧に包み、ご献体を棺に納めたとき、ご献体いただいた方も1つの人生を歩んだ「 人」なのだと心から実感した。そして、大切なお体を私たちの解剖実習のために捧げてくださったことに対し、感謝の気持ちでいっぱいになった。
ヒトの体の中は私が教科書で学んでいたものとは全く異なり、想像していたよりも遥かに複雑で緻密だった。6週間の解剖実習で、人体の構造が非常に精巧であること、受精と発生から始まるいくつもの奇跡が重なって1人の「 人」が出来上がるということを学んだ。解剖実習を終えた今、これから人体や医学についてさらに学びを深めたり医療に関わったりすることが楽しみである。ご献体いただいた故人とそのご家族はもちろん、解剖実習を通して関わった友人、先輩方、先生方、また実習の準備や管理に尽力してくださった方への感謝の気持ちを忘れずに、医学生そして将来は医師として、医学や医療に真摯に向き合っていこうと思う。

解剖実習を終えて
2024年度 医学類2年 U.A.
解剖実習最終日、ご献体をネル布とビニールでそれまでで一番丁寧に包み、棺に納めてお布団をかけたとき、私は安堵の気持ちでいっぱいになった。それは、大変な解剖実習を無事に終えたという思いもあるが、それよりも、この方はやっと安らかな眠りにつけるのだという思いの方が強かった。
初日に実習室に足を踏み入れた時、まず整然と並べられたビニールに包まれたものが、異質な存在感を放っていると感じた。ネル布を初めて開いたとき、つい2年前の祖母の葬式を思い出していた。そこで見た棺の中の祖母の顔と、ご献体の顔の様子が違ったことが、なんだか申し訳なかった。だからこそ、最初のうちはご献体の生前を考えないようにしていたのではと、今は思う。しかし、解剖実習を進めていくにつれて、その思いも変わっていくようになる。足の筋肉を解剖しているとき、班員が「この人は、ご高齢なのに足の筋肉が大きくてしっかりしているね。最期まで歩けていたのかな」とつぶやいた。また、取り出した肺に固い膜が付着しており、それが空気中の粉塵やほこりを長く吸っていたことによるものと知ったとき、班員とどこに住んでいたのか、すごく長く生きていたのだねという話をした。こうして班員と話しながらご献体と向き合っていくうちに、ご献体の生前に思いを馳せるようになり、この方も生きていたのだと感じるようになった。それに伴い、ご献体してくださった方の生前の偉大な決意と、ご遺族の方の思いを実感し、感謝の念を感じるとともに、この実習期間中にできるだけ多くのことを学び取らせてもらおうと思った。
実際、この解剖実習では本当にたくさんのことを学ばせてもらった。臓器や筋肉の立体的な位置や、それぞれの血管の太さや関係、走行など、実際に手を動かして感じるものは、決して座学だけで得ることはできなかった。人体は組織としても仕組みとしても本当によくできていて、剖出しなかった細い血管ひとつひとつにもその役割があることを感じた。そして、人体は人によってまったく異なるということも、実習を通して嫌というほど理解できた。神経の走行一つとっても、正確な位置を定めることはできない。これは私たちが実際に医療に携わる中で、患者さん一人ひとりに適切な医療を提供するために、気を付けていかなければならないことだと考える。反対に、個人差という言葉に甘えず、普遍的な知識も身につけていかなければならないと、剖出をスムーズに進める先生方を見ながら、そう考えた。
納棺するときに思い出していたのは、やはり祖母の顔だった。祖母とかなり異なる様子の納棺を見て、私は改めてご献体の方とご遺族の方々の意志に感謝した。貴重な学習の経験をくださったことに感謝し、この学びを糧に必ず立派な医師になると誓った。
改めて、ご献体くださった故人の方とそのご遺族の方々、実習を支えてくださった先生をはじめ、ご協力くださったすべての方に感謝申し上げます。そして、ご献体の方の安らかな眠りを心よりお祈り申し上げます。

解剖実習を終えて
2024年度 医学類2年 S.M.
長年バレエを習っていた私にとって、上肢や下肢、背中の筋肉の解剖は非常に興味深い体験であった。バレエは全身を使って表現を行う芸術であるからして、表情のみならず頭の先から足の先までの筋肉や関節を意識的に使うことが要求される。解剖が進むにつれて常日頃イメージしていた筋肉の走行やまとまりが確かな実感を伴って目の前に現れることに感動を覚えた。体表から観察できるもののみならず、美しい筋肉の中に神経や血管が一定の規則をもって緻密に存在する様は、精巧な機械のようで圧巻であった。
一方で、胸腔及び腹腔の解剖に入ってからは多くの困難に直面した。私が解剖させていただいたご遺体には上行結腸、子宮、胆嚢がなかった。肝臓はがんの転移により肥大し、腹腔上部に存在する臓器を圧迫しており、腹腔下部の臓器はがんの播種が広がり癒着により正常構造をとどめている部分はほとんど存在しなかった。
当初は手持ちのアトラスと全く異なる概観に非常に困惑し、いただいたご遺体から何を学ぶべきか見当もつかなかったが、その後、このご献体から学べることが非常に多いことに気が付けた。正常の構造や位置関係は他のご遺体や教科書を参照させていただけるが、癒着の状態やご遺体に施された手術はこのご遺体でしか学べないものであると気が付けた。腹膜を破った後からは自己学習として、結腸右半切除術とは何か?がんの転移経路は何か?癒着はどうして起こるのか?もしこの患者さんを手術するとしたらどうやって視野を確保しようか?などを調べたり自分で考えてみたりと、解剖して得られる情報と知識とのすり合わせを自己学習として深めることができた。この経験は医師として患者さんに触れあうようになったときに大きなアドバンテージになると思う。
習い事の知り合いの方から、ご献体に対する興味深いエピソードを聞いたことがある。彼女の母親は自分の身体を医学の発展にささげることを強く望んでいらっしゃったのだが、がんで亡くなったことで死亡時にはとても瘦せてしまわれており、友人は学生さんにこの状態のご遺体を提供することは忍びないとしてご献体を行わなかったそうだ。解剖実習を行う前は私もこの意見には同意していたが、今となっては全くの反対である。
痩せて衰えてしまった筋肉も、癒着により視野の確保が難しい腹腔内もご献体の方が病気と闘った大切な証であり、我々医学生はそこから教科書で得られる以上の何かを学んで肥やしにすることができる。多種多様な病歴や、奮闘した証を持った方がたくさんご献体くださるようになれば嬉しいな、というのが解剖実習を終えて最も強く感じた感想である。

解剖実習を終えて
2024年度 医学類2年 U.S.
6 週間にわたって行われた解剖実習は、本当にあっという間であった。毎日ご遺体と向き合ってアトラスとにらめっこをする日々が続き、精神的にも体力的にもつらいと感じることが多かったが、医学生として非常に貴重な経験をし、多くのことを学ぶことができたと感じている。
実習初日、解剖室へ足を踏み入れると少し寒気がした。ご遺体がずらっと並んだ光景は衝撃的で、ついに解剖実習が始まるのだという緊張感から思わず無言になったのを覚えている。解剖を始める前に全員で黙祷をささげたとき、「故人とその家族の尊い意思に感謝して」という言葉を聞いて、その意思を決して無駄にしないよう最後まで目の前のご遺体に真摯に向き合おうと心に決めた。
いざ解剖が始まると、人体の構造の複雑さと個体差に驚かされた。筋肉や神経などは脂肪組織に埋もれていて剖出しづらく、さらに教科書やアトラスで予習したものとご遺体とでは異なる部分が多くて同定すること自体が難しかった。しかし、筋肉の起始や停止、血管・神経の走行、それらの立体的位置関係を観察し、どの筋肉をどの血管が栄養していてどの神経が支配しているのかを班員と議論しながら把握してくうちに、その機能を包括的に学ぶことができた。また、ご遺体ごとの個体差は大きく、他の班のご遺体と比べると、筋肉や臓器の形・色・大きさが違っていたり、血管や神経が別の箇所で分岐していたりしていて、実際にひとの身体を扱うということはこういうことなのだと実感し、非常に興味深かった。他にも、この解剖実習を通して学んだこととして、協力して助け合うことの重要性も挙げられる。約 1 ヶ月半という長い期間、毎日何時間も解剖を行っていくなかで、時には班員と意見が対立することもあった。しかし、班で相談しながら、分担した役割を各々が果たし、前日の進捗状況や情報を共有することで、実習を円滑に進めることができた。納棺の際に感じた達成感と班の一体感は、今までになく大きなものであった。改めて振り返ると、ただ教科書で人体の機能と構造を勉強するのとは比べ物にならないほど多くの知識や感覚を得ることができた。目の前のご遺体が先生であると先生方がおっしゃっていたように、ここで学んだ解剖学的知識は将来臨床の場で必ず役に立つであろう。解剖実習を通じて、医学を学ぶことに対する責任とひとの身体を扱うことの重みを感じ、医学生としての大きな一歩を踏み出したように思う。この経験とご献体くださった方への感謝を忘れず、自分が目指し理想とする医師になれるよう今後も精進していきたい。

解剖実習を終えて
2024年度 医学類2年 S.M.
解剖実習に取り組んだ6週間は人生の中でも一番密度の高い期間だった。これほどまで感情が動いた実習はなかったし、日々変わり続ける体調や心情の中、同じことに取り組み続ける6週間は初めての経験だったと思う。
解剖実習初日。初めてご献体と対面する瞬間の緊張感は今でも鮮明に思い出すことができるくらいに凄まじいものだった。私だけでなく、周りの同期も同じように緊張していたのか、実習室全体が異様な空気に包まれていたのを覚えている。そこから中間諮問までの3週間弱、手引き通りに剖出を進めることに夢中になりすぎて、各々の構造の関係性やその構造が存在する合理的な理由を考える余裕さえもなかった記憶がある。そのくらいギリギリの状態ではあったが、実習の最初と最後の黙祷の時は一度心をリセットしてご献体に向き合うことによって神聖な気持ちを感じることができたと思う。
中間諮問のあった週に私が体調を崩してしまい、一日実習を休んでしまったことがあった。休んだ日に実習が円滑に進まなくなるだけでなく、中間諮問という一つの大きな区切りを前にして、進捗が大幅に遅れてしまった。そのことによって班員には本当に迷惑をかけてしまったと感じているが、班員はそんな私を咎めることなく、純粋に体調を心配してくれたし、復帰後も無理のない範囲でやってくれればいいよと気遣ってくれたのが本当にありがたかった。このように、ご献体に向き合う以外にも周りの人と毎日協力して剖出を行わなければいけない環境下で絆が生まれたのも事実だと思う。班員の中には今までほとんど会話をしたことのなかった班員もいたが、解剖実習を通してたくさんコミュニケーションをとり協力して実習を乗り越えることができたのは今後の財産になると思う。
中間諮問を終えると、腹膜を切開き臓器の剖出をし始めたが、そのころになると徐々に各構造の関係性を意識して勉強できるようになってきた。それからはより一層ご献体の神聖さを感じることが増えてきた。人間の体は一つとして同じものはないし、教科書通りの構造が必ずあるわけでもないということが改めて感じることができたし、教科書ではあるはずの構造の機能を補完するために発達している構造を見つけるとさらに一層理解を深めることができた。
このように充実した解剖実習を行うことができたのは、ご自身の体を提供してくださった方やそのご遺族の意思があってのことであると思う。解剖実習を経るとその気持ちがより強くなった。ご献体と向き合うことを通じて、医学的な知識の理解を深めるだけでなく、人としても成長したと感じることができたため、本当に実りある実習であったと感じた。
最後に、ご献体くださった方、そのご遺族の方、本当にありがとうございました。

解剖実習を終えて
2024年度 医学類2年 I.M.
私は、医学部に入学当初から自分に解剖ができるのだろうかと解剖実習に緊張していた。あっという間にM2に進級し、解剖実習が近づいてくるにつれて、緊張や不安も増していった。とうとう迎えた実習初日に実習室に入ると、すでに実際にご献体が各実習台に並んでおり、いよいよ始まる解剖実習にとても不安を覚えた。しかし、いざご献体と対面すると、ご献体された方の意思を無駄にしてはいけないという気持ちが強くなり、解剖が自分にできるのだろうかといった不安は無くなっていった。実習が始まると、学ぶことに必死で、あっという間に6週間にわたる解剖が進んでいった。解剖が進み、実習が始まる前に感じていた不安や緊張は無くなったが、メスを入れる際は緊張感を持って解剖に挑んだ。初めは加減が分からずなかなか上手く解剖できないことも多かったが、先生方から教えていただき、手技を身につけることもできたと感じている。6週間毎日のように教科書やアトラスで予習、復習をし、解剖に挑んだが、予習でみたように簡単に組織を見つけることはできなかった。筋肉や臓器は実際の人体では教科書やアトラスの図とかなり異なっているものも多く、ご献体によっても様々で、印象に残った。一方で、動脈や神経は走行や分岐がほとんどアトラス通りになっているものも多く、人体の精密さを実感し、逆に衝撃を受けた。このように、この6週間の実習を通して、実際に自分で解剖を行わなければ気がつけないような人体の仕組みを理解することができた。また、今まで学んできたことを実際にご献体で確認することもでき、とても有意義な実習となったと思う。これから学ぶ際もご献体を思い出すことで、学びを深めていきたいと思うとともに、これからの学習にもより一層力を入れていこうと緊張感も覚えた。
今までの学習は基礎的な内容が多く、実際の人間について考えることは少なかったが、解剖でご献体と向き合う中で、実際に人間と対面し医学生としてようやくスタートを切ることができたように感じた。また、班員と6週間にわたって協力して解剖を進めていくという体験は、他ではすることのない経験であり、人間としても成長することができたのではないだろうか。実習が始まる前はあれだけ不安と緊張を抱えていたが、そんな実習をやり遂げることができ、大きな達成感と成長を感じた。
今回、この貴重な経験をやり遂げることができたのも、ご献体くださった方やそのご家族、先生や先輩方など、多くの人の支えがあってこそであった。最後に支えてくださった方々と、ご献体くださった方とそのご家族の尊い意思に心より感謝申し上げます。

解剖実習を終えて
医学類2年 K.F.S
解剖実習初日、大学入学前から解剖学に興味があった私は、初めて身近に死を感じる緊張 とともに、少しの好奇心を感じていた。これまでしてきた座学とは違い、実際の人体に触れながら学ぶことができる機会を素晴らしい機会であると感じていた。周りの友人は「死」に向き合うことに緊張し、実習室に入ることを躊躇している者もいたが、私は好奇心に押され、実習室に足早に入っていった。実習室に入って初めに感じ、目にしたのは、空気の冷たさ、嗅ぎなれないホルマリンのにおい、そして解剖台の上のビニールにつつまれたたくさんのご献体である。明らかに異様なその光景に、私は怖さを感じた。ほかの人はこの光景を想像して怖がっていたのかと思うと同時に、「死」と向き合うことを深く考えられていなかった自分に気づき、情けなさを感じた。普段生活している中で目にする多くの人々。この人々はもちろん生きていて、自分で動いていて、話をしている。そんな「人」が布で巻かれて動かないのは、寂しさや違和感を覚えざるを得なかった。私が勉強させていただくご献体の前に座り、先生方の説明を聞いている間、ビニールにつつまれたご献体を近くで見ると、ひざの関節や腰、頭などの輪郭がわかり、改めて目の前にいらっしゃるのは今まで生きていた、私たちと同じ「人」なのだと実感した。
初めの作業は、ご遺体の皮切だった。今まで人の皮を切ったことはない。誰しもそうだろう。皮切のためにメスを入れるとき、全員が緊張していただろう。慎重に、ご献体、そしてご遺族の方々に失礼の無いよう、作業は進んでいった。初めは人体のことを理解していなかったこともあり、脂肪が十分に残っている段階から、丁寧に神経を探っていた。この時の私は神経がどのくらいの強度なのか、どんな色をしているのか、どこからどこへ走行しているかもわかっていなかった。解剖実習を終えた今では、丁寧に作業することも大切だが、ご献体をリスペクトするということはご献体からたくさんのことを学びきることであると考えている。そのため、実習中盤までの私にはご献体や遺族の方々をリスペクトで来ていなかったと感じている。実習中盤までは、実習書に記載されている構造物をひたすら探して見つかったら次、見つかったらまた次、、のように作業として実習を行っていた。学びはあったもの、課題のようになってしまうやり方に、私は実習前のような好奇心を感じられなくなっていた。これは自分にとって良くないことであるのはもちろん、私たちのために協力していただいたご献体、そのご遺族にとても失礼なことである。中間諮問や実習前のレクチャーで指摘されて自分が愛の無い解剖を行ってしまっていたことに気が付いた。中間諮問後の胸腔、腹腔について勉強させていただくフェーズでは、この反省を生かして、どの構造物がどこにあるかだけでなく、なぜそうなっているか、そこにあることでどのような役割を果たしているかなどを考えながら実習に励むことができたのではないかと思う。
実習が終了し、納棺させていただくとき、私の心は感謝でいっぱいだった。ご献体なしでは学べなかったたくさんのことを、実際に見て、触って、考えて学ぶことができたからだ。医学類に来なければできなかったこの貴重な体験を大切にして、ご献体やそのご家族への感謝を忘れずに、これからの学習に生かしていくことも、ご献体へリスペクトを示す方法の一つである。

解剖実習を終えて
2024年度 医学類2年 飯田拓海
医学の道を志した時から、そして実際に医学生としての生活が始まってからおよそ一年、幾度となく耳にして来た解剖実習を先日終えた。解剖実習を行なった約一ヶ月半は決して容易いものではなかったが、私のこれからの人生にとってかけがえのない経験となった。
解剖実習の開始が近づくにつれ、自身が医学の道に進むことへの覚悟を感じるとともに、実際に解剖実習を行うことへの不安も感じていた。そう感じているのも束の間、解剖実習の開始日を迎えた。普段の雰囲気とは異なり、緊張感に包まれたロッカー室を出て実習室に入り、布とビニールに包まれて並んだご遺体の前で席に着いた。“御献体いただいた故人と、そのご家族の尊い意志に感謝して、黙祷”という先生の言葉で実習室が静まり返り、感謝の意を抱きながら深呼吸をして目を開いた。いざ実習開始となり、ご遺体にかかったビニールを外したが、その瞬間は、失礼ながらお顔を直視することができなかった。少し時間を取り、気持ちを落ち着かせて改めてお顔を拝見すると、ご遺体は想像していたよりもずっと穏やかで、暖かな表情をしていた。改めてご遺体への感謝の気持ちを持ち、解剖実習を行う日々が始まった。初日から最終日まで学びの日々が続き、実習が終わればその日行った内容の復習、翌日の内容の予習をして翌日の実習に臨んでいた。自分で学習して実習に取り組んでも、教科書とご遺体が完全に同じであるはずもなく、先生方に教えていただきながら実習を行う日々が続いた。学習ペースについても手探りだったが、日々の学習、実習の中で着実に知識がついていくのを感じたほか、手技も経験を重ねることで向上していった。開始当初は不安や緊張感が大きく、剖出を行うので精一杯だったが、試問が近づく頃には慣れてきたこともあり、他の班の御献体との病気などによる違い、そしてその原因など、少しずつながらも考えを深めることができるようになった。限られた期間の中で全てを学ぶことは難しかったが、先生の“皆さんの本当の先生はご献体である”という言葉を胸に、御献体から非常に多くのことを学ぶことができた。長いようで気づくと過ぎてしまった六週間の解剖実習を通し、果てなく長い医学の道への小さくとも力強い一歩を踏み出していることをしかと実感した。
そして迎えた最終日、約六週間という期間お世話になった御献体への感謝の気持ちを胸に、納棺を行なった。御献体を棺に納めるときには、解剖実習の短い期間のみでなく、御献体の今まで歩んできた人生にも思いを馳せ、生前は会うことがなかった方との本実習での貴重なご縁を感じるとともに、命のつながりについて改めて深く考えた。
最後に、この解剖実習を通して多くのことを教えていただき、医学の道を歩み進めさせていただいた、ご献体いただいた故人、そしてそのご家族に心の底より御礼申し上げます。

解剖実習を終えて
2024年度 医学類2年 砂川将太
納棺式の日、私はご遺体を棺に納めながら6週間にわたる実習を思い返していた。私はこの6週間で何を学ぶことができたのだろう。
解剖実習が始まる前に私が教科書や手引きを見て最初に感じたことは、こんなに膨大な量の血管や神経、筋肉等の身体の構造を覚えることができるだろうかということであった。このような不安から私は教科書や手引きで予習してから実習に臨んだ。しかし実際のご遺体で予習した構造を確認しようとしてもよく分からず、気づけばその部分を切ってしまっていたこともしばしばであった。教科書では同じ身体の部位でも血管のページには血管だけ、筋肉のページには筋肉だけ、神経のページには神経だけ、というように描かれていることも多く、なかなか身体の立体感を理解できずにいたことも原因の一つだろう。
解剖について勉強する上で、教科書で基本的な知識を学習することは重要だがそれだけでは全く不十分だった。解剖実習を通して教科書ではなく自分の目の前にいるご遺体こそが先生であり、ご遺体から学ぼうとすることこそが重要であると痛感した。目の前にいるご遺体は教科書の人体図とは異なる一人の人間である。その身体が実際にどのように成り立っているのかを考えながら剖出を進めることで各組織や臓器の構造や特徴、関連をより深く理解することができた。教科書だけではあまり理解することができずにいた身体の立体感も実際に自分で作業することで理解することができ、最初は膨大とも思えた知識が自然と覚えられた。
実習の後半では実習の日々にも慣れてきて毎日ご遺体から学ぶことに集中できるようになっていた。このころには呼吸や食べ物の消化などといった身体活動に関わる身体の器官とそれを栄養している血管の構造などといった身体の構造の緻密さに感嘆することの連続だった。
納棺式の日に生前の姿からは程遠いビニールに包まれたご遺体を棺に納めた時に、私は献体という選択をされた故人やご遺族の崇高な意思を感じた。そして医師の育成や医学の発展に寄与するために自分の身体や家族の身体を解剖されることを承諾してくださったという事実と、そのご遺体を私が解剖させていただいたという事実を改めて認識した。故人とその遺族の崇高な意思を自分が受け継いで一生をかけて学び続けなければならないことを実感し身震いすると同時に、医学の道を選んだ者としての使命を感じた。
今回の解剖実習は私にとって一生忘れないほど貴重な経験になった。最後に解剖実習の準備や指導をしてくださった先生方、そして何より献体という難しい決断をしてくださった故人とそのご遺族に心から感謝申し上げます。

解剖実習を終えて
2024年度 医学類2年 伊藤至秀
「ご献体頂いた故人とそのご遺族の尊い意思に感謝して黙祷」という号令が毎日かけられたが、私は解剖実習期間中に「尊い意思」について考えていた。亡くなった後に自分の体を医学教育のために使って良いという選択は確かに素晴らしい意思であり、私のような医学生が感謝しなければならないことも理解できる。しかし日常的に尊いと思わない私にとっては、「尊い」とは何なのか、何がどのように「尊い」のか、よく分かっていなかった。
解剖実習の初日、当たり前のように解剖台に安置されている37人のご献体に若干の恐怖を覚え、かなり緊張しながら作業が始まったが、特段の尊さを感じることはなかった。初日は目の前の状況を飲み込むことに精一杯で、気持ちの整理をする余裕が無かったように感じる。私は今までの人生で葬式にさえあまり行ったことが無く、亡くなった人間の体に触れることもなく、当然ながら生死問わず人体の内部を自分の手でかき分けたことも無い。初日は上半身を担当したが、一番最初に正中線にメスを入れる時に手が震えたことをはっきりと覚えている。初日終了時には、感情的に「疲れた」という気持ちが強く、「尊い」と思う間も無く実習が終わってしまったと思う。
最初の1週間が終わる頃には解剖にもかなり慣れてきて、気持ちにも余裕が生まれた。解剖中に目の前のご献体についてふと考えるようになり、よくお顔をまじまじと眺めていた。どのような人生を歩んでここまで来たのか、どんな家族構成で育ったのか、ご結婚されたのか、子供や孫はいたのか、どんな最期を迎えたのか、などと勝手に想像していた。もちろん答えは返って来なかったが、個人的には献体に同意した理由が気になった。日本全体でも世界全体でも、献体する人よりも献体しない人の方が圧倒的に多い。事実、私の周りにも献体した人はいない。つまり、献体された故人には、敢えて献体を希望した経緯があるはずであり、私は献体に同意した理由を知りたいと思った。
2週目の帰宅後に「筑波しらぎく」を読んで、私は答えを得たと感じた。「筑波しらぎく」は筑波大学白菊会の会報であるが、そこには解剖実習を終えた2年生の感想文と共に、献体された故人の生前の言葉が載せられていた。名前は載っていないので誰が書いた文章なのか分からないので、過去のご献体の誰かの言葉であるが、献体に同意した理由が書かれていた。曰く、自分は年をとって他人に世話と迷惑をかけるばかりであるが、こんな自分でも最期に人の役に立てるなら、是非自分の体を使って欲しい、と。恐らく何の関わりも無いであろう医学生のために役立って、亡くなっても社会に貢献しようという姿勢に感銘を受け、この姿勢にこそ「尊さ」が宿っていると感じた。
私は、亡くなっても社会に貢献しようという「尊い意思」をご献体に見せて頂いた。私も社会に貢献しようという「意志」を行動に表したい。

解剖実習を終えて
2023年度 M2
「みなさんの先生はご献体です」これは最初の授業で言われた言葉であった。聞いた時は実感こそなけれ、献体いただいた方への敬意を示せということなのだろうと受け止めていた。実際に解剖実習が始まると、限られた時間の中で、目の前の組織・筋肉・神経・血管などを覚えるのにただただ必死で、その意味について考える余裕はなくなっていた。
数週間して足の筋肉の解剖をしていた際に、同名の筋肉が左右で大きく異なることに気付いた。先生に聞いてみると、例えば杖をついていらっしゃったり、片側の足が不自由でいらっしゃったりするとこうして左右の筋の大きさが異なることがままあるとのことであった。脇目も振らず必死になって解剖してきたがその時に初めてご献体いただいた方の生前のお姿や生活に思いを馳せた。今、目の前の方は、どのように生まれ、どのような人生を送り、そしてご献体いただくという結論にいたったのか、またご遺族の方々はその決心をどのように受け止め、賛同してくださったのか、そういった思いが巡った。
ある種、恐ろしいことではあるが、初めのうちも決して怠惰な考えや適当にやればよい、などと考えていたわけではない。真剣に取り組んでいるからこそ、目の前のことに集中してしまっていた。そのあまり、その方の生活や人生を考えることを失念してしまうということは、将来、医師として多忙に、真剣に働く中でも陥りやすい状況なのではないかと推察する。しかし目の前の病理に集中するあまり、患者の生活や人生に思いを馳せられなければ、良い医療ができるとはいえないだろう。私はその時に初めて、「先生はご献体だ」ということの意味を実感できた。また、当然ではあるが、教科書通りでない三者三様の体の作りや、立体で見た時の見え方の違い、色や細かな形などはお一方お一方のお体をみることによって初めてわかることである。人体の構造の複雑さを、そして医療者として人の体や命に向き合うということを教えてくださった故人に深い感謝の意を表したい。
ご献体いただき、6週間あまりも毎日お体を見させていただいた方のお名前や生活について我々は全く知ることができない。少しでもご献体いただいた方について考えたいと思い、解剖実習を終えて、『白き旅立ち』という本を読んだ。そこには日本で初めて献体をしてくださった方の半生がフィクションも含め描かれていた。献体いただいた方の本当の思いはもちろん本からもわからない。ただ、死後に解剖されることの忌避感を超えて、医学の発展のために献体を希望される経緯はどんなものであれ、真摯に考えていきたい。
さらに、恥ずかしながら献体の歴史についても本実習を通じて初めて学んだ。白菊会の設立の経緯や『白き旅立ち』に描かれた医師らの解剖に対する熱意も、今の恵まれた状況との違いを強く実感した。我々は制度化された医学教育の中で、ご献体を準備され、清潔に、安全に整備された部屋で解剖を行うことができる。解剖実習を行えることをどこか当然のように感じてしまっていないだろうかと思う。解剖がこのように行えるように尽力した歴史上の方や、何よりもこれまで医療の発展のために献体いただいたすべての方にも改めて感謝申し上げたい。
最後ではあるが、夏季休暇を利用して慰霊塔と、篤志解剖第一号の献体をしてくださった美幾さんの墓を参った。これまで我々がこのように学ぶことができるように尽力いただいた方への感謝は、今後、医療者として真摯に学び、そして働くことで初めて還元できる。その思いを忘れずに今後も勉学に励みたいと思う。

6週間の解剖実習はあっという間だった
2023年度 M2
6週間の解剖実習はあっという間だった。毎日御献体と向き合い必死で彼女から学んだ6週間は、今までの大学生活で一番濃密で、生涯忘れないと確信できるものであった。
解剖実習についてはいろいろな先輩方から事前に話を聞いていたが、想像すらできていなかったのだと知ったのは解剖実習室に初めて入った時だった。御献体を包む真っ白な布も、ひんやりとした空気も、どこか自分が違う場所にきてしまった不安感を私にもたらした。そして、同時に、この場所での6週間を無駄にしないように全力を注ごうという覚悟も生まれた。
その覚悟を胸に毎日毎日予習復習に追われながら解剖をしていたが、満足いく日はほとんどなかった。最初の方は神経の位置を把握せずに実習にのぞんでしまい、たくさんの神経を傷つけた。その時感じたのは恐怖だった。一度傷つけてしまったら取り返しがつかないことを実際に経験し、もしもこれが手術であったら自分は患者の命を奪っていたのかもしれないと思うと恐ろしくなったのをおぼえている。勉強の仕方を学び次第に剖出できる様になっても、御献体に謝ることは多かった。休み時間を削っても、夜遅くまで残っても学びきれないほど多くのことを御献体は教えてくれ、座学で文字ばかり追ってきた私は驚いてばかりだった。全身に張り巡らされる神経や血管の位置、その繊細さは想像と全く違っていたし、逆に臓器の構造は学んだ通りであった。発生学とも組み合わさって、各臓器と神経のつながりは非常に興味深かった。解剖の先生の1人が、解剖に詳しいからこそ自信を持って治療を行うことができるとおっしゃっていたがその通りであると思う。人体の複雑な構造を理解することは容易ではないが確実に医療行為に直結する。医師になるにあたって解剖は絶対に必要なものなのだと切に感じた。
「御献体くださった故人とその遺族の尊い意志に感謝を」。これは毎日の解剖前後の黙祷の際の言葉だ。解剖で御献体と向き合う時、いつも“尊い”という言葉はぴったりだと思っていた。御献体がなければ私たちはこの様な学びの機会を得ることができなかった。きっと故人も御遺族の方々も、これからの医療の発展につながると信じてわたしたちに体を預けてくださったのだろう。故人の生きている時に会うことは叶わなかったが、亡くなってからも私たちへの期待は感じることができた。今回の解剖で私は本当に未熟であるということが浮き彫りになったと思う。しかし確実に医学生としての意識は大きく変わった。故人の方、御遺族の方の尊い意志を、期待を、無駄にすることのないようにさらに精進していきたい。
6週間に及ぶ実習を支えてくださった全ての方々への感謝は忘れません。本当にありがとうございました。

解剖実習を終えて
2023年度 M2
今日の最終試験をもって解剖実習が完全に終了しました。1か月半という密なスケジュールは長いようで短いものでした。
初めてご遺体と向き合ったときご遺体はとても安らかな顔をされていました。その顔を見ていると、「これからこの方の体をお借りして、たくさんのことを勉強させていただくのだ」と身の引き締まる思いがしました。初日の皮切りはご献体くださった方の組織を壊してしまいそうでほんとうにおそるおそるでした。
教科書やバーチャル上で予習してもわからなかったことが、いざ解剖実習を行って実際に自分の手で触れたり目で見たりして観察することで、自分の中で「そういうことだったんだ」という理解に変わる瞬間を何度も体験しました。その反面、正常とは異なるものを見たときの違和感や混乱も体験しました。実際にご献体に触れて見て感じたことが自分の知識として蓄えられていくのをひしひしと感じました。教科書上の学習のみならず、実際にご献体を解剖することで得られるものはこれからの私にとってとても大きな糧になったと思います。このような機会を与えてくださった、ご献体くださった方やそのご家族の方には感謝してもしきれないです。
私たちの班のご献体は90歳で亡くなられた方でした。その方の死因は誤嚥性肺炎でしたが、心臓に大動脈瘤があったり、大腿上部に壊死が見られたりと、死因との直接的な関連はなさそうな「異常」が多くみられました。そのような部分は決して「健康」とは言えないものかもしれませんが、ご献体くださった方がその人自身の人生を生き切ったのだろうということを強く感じさせ、心にぐっとくるものがありました。
今回の解剖実習を通して、人体の基本的な構造を知ること、そして一人一人の体の構造は皆少しずつ異なることを理解しておくことがこれからの学習や臨床、研究の場でいかに重要であるかを学びました。例えば、手術において基本的な血管や神経の走行や筋肉や臓器の配置を理解することはもちろん重要ですが、その走行や配置が患者さん一人ずつ少しずつ異なると知っておくことは、誤って組織を傷つけないために非常に重要だと改めて感じました。
今回の解剖実習では本当に多くの学びがありましたが、この期間だけで何もかも理解することはもちろんできませんでした。だからこそ、これから自分のわからなかったことを突きつめ、自分の理解に変え、さらなる学びに昇華させていきたいです。これが医療の発展のためにご献体くださった方やそのご家族の気持ちに応えることにつながると信じています。
ご献体くださった方とそのご遺族の方、このような大事な機会をくださり本当にありがとうございました。

解剖実習を終えて
2023年度 M2
自分自身の身体について理解したい。これは私が医師になりたいと思った理由の一つだ。私はずっと、生まれた時から使っているこの身体を、ある程度、意識的にコントロールできていると思っていた。実際には、身体の中で自分の意識通りに動かせている部分はたった一部であって、医学的な知識のある人ならそれは当たり前のことのように感じるかもしれない。しかし私は、病気になって初めて、自分の身体は必ずしも自分の思い通りにできるわけではないのだという実感を持った。そこで、如何に自分自身の身体について知らないのか痛感させられ、それについて学びたいという目標を持った。振り返ると、この解剖実習を通して漸く、その目標を達成するためのスタートラインに立てたのではないかと思う。
今まで私は、身体の全体的なイメージが掴めていなかったため、医学について学んでも、その内容と自分自身の身体と結びつけて考えることができていなかった。しかし、解剖実習を進めるにつれて、私達の先生である目の前のご献体を通して学んでいる知識を、自分の身体に投影することができるようになった。
解剖実習で人間の身体に実際に触れて、その中を剖出していく過程は衝撃的だった。今まで座学で人間の身体について勉強してきたのとは違う、リアルな学びだった。また身体をバラバラにして学ぶのではなく、一体のご献体で、すべてが繋がった状態を見ることができた。そうすることで、身体を形作る構造のうち、一般的な部分と特殊な部分とを分けて認識することができるようになったと思う。
また、解剖実習を通して、医学を学ぶ姿勢に変化が生まれた。解剖実習開始直後は、分からないことが多く、手引きを読んで与えられた課題を必死にこなすことで精一杯であった。しかしながら、中間諮問の前後で、自分たちだけで解剖に取り組むと、どの部分が重要なのか分かっていないことに気づいた。先生方に質問をすると、いつでも広い視点から、全体の理解に役立つ回答をしてくださった。独りよがりになるのではなく、より広い知識を持つ人を頼って学習をすることの重要性に改めて気付かされた。
最終諮問では、先生が発生学と絡めて心臓の解説をしてくださった。私がその中で衝撃を受けたのは、心繊維三角についての解説だった。初めてその言葉を知ったとき、繊維という言葉が脈絡もなく登場したことに軽く疑問を抱いていた。しかしながら、それについて深く調べることはないまま、諮問の日を迎えた。当日、洞房結節から発生した電気信号が、房室結節へ伝わった後、心室全体へ伝わってしまわないのはなぜか、それを可能にする構造は何か答えよという質問があった。その答えこそが心繊維三角であり、つまりそれが絶縁体の役割をする構造であると分かった時、繊維という言葉とその役割が結びついて、感動を覚えた。今までの自分の疑問が解消されただけでなく、こういった印象的なエピソードを結びつけて覚えることで、丸暗記から脱し、理解の上で記憶に留めることができるのだと気付いた。これから学ぶ医学のどのような内容でも、自分よりより広い視野や知識を持つ人から積極的に話を聞くことが、深い知識の定着への近道になると学んだ。
この六週間は、非常に苦しかったが自分の成長を実感できる時間となった。最後になりますが、ご献体頂いた故人と、そのご家族の方々、本当にありがとうございました。私たちの成長、医学の発展を願い、このような貴重な機会をくださったこと、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。今回学んだ知識だけでなく、感じた思い、この解剖期間に私たちの学習を支えてくださった皆様の存在を忘れることなく、多くの人を救える医師を目指して勉学に励んでいきたいと思います。

解剖実習を終えて
2023年度 M2
解剖実習の初日、実習室に入った時の静かで重苦しい空気、そこから受けた緊張を忘れることはないだろう。実習を行った6週間は、1つでも多くのことを理解して覚えようとしてひたすら勉強を続ける日々であると同時に、本当に貴重な経験をさせていただいた期間であった。
解剖実習を振り返ると、最初のうちは解剖を学ぶことの難しさを実感して苦悩していた。解剖した構造の区別がつかず、覚えるべき解剖学名の多さに対応できずにいて、実習書とご献体を丁寧に照らし合わせなければその構造の名前が分からなかった。しかし先生方に質問すると、筋肉や骨、血管、神経の名前をご献体の前ですぐに示して教えてくださった。なぜそのようなことができるのか分からず、悩んでいるところで先生方に相談すると、その構造が人体において果たす役割や他の構造との関係を考えるよう助言をいただいた。例えば筋肉であれば、その筋肉がどのような運動をする際に役立ち、どの血管が栄養してどの神経が支配しているか、といった具合である。そのことを考えて初めて、人体の1つ1つの構造は単独で存在するのではなく協調して機能していることと、他の構造との関わりや位置関係から定義されることが理解できた。そして、解剖した構造の名前が自然と頭に入り、人体をより深く理解したいという強い興味を持って実習に取り組むことができるようになった。また、ご献体と本当の意味で向き合って解剖を行えたのはこの頃からだと思う。実習書と比較して解剖した構造を確認するに留まらず、解剖して目の前にある構造の全てとそれが果たす役割や他の構造との関係を理解する。そのために、自身の体をもって解剖学を教えてくださるご献体と真摯に向き合い、実習の中で没頭して考えることができるようになっていった。
解剖実習の最終日、納棺の際に抱いたのは大きな感謝の気持ちであった。実習を通して、人体の構造の複雑さや精緻さが十分に実感できた。解剖した構造は、そのどれもが生きていくために何らかの役割を果たす重要なものだろう。その1つ1つを自分の目で見て理解し、それらが協調して人体を動かす不思議さに大いに感動した。そのような機会は今後二度と得ることのできない、貴重なものだろう。そして医学を学ぶ際に、将来は医師として働く際に、実習で学んだことを活かしたい。実習の中で向き合い続け、多くのことを教えてくださったご献体に感謝と敬意をもって手を合わせ、納棺を終えた。
最後に、ご献体くださった方とそのご遺族の方々、解剖実習に関わってくださった先生方、協力して解剖実習を行った仲間に感謝を込めて。誠にありがとうございました。

解剖実習を終えて
2022年度 M2
解剖実習を行うまでの大学生活は、医学の中でも高校生物と重複するような基礎的な内容について講義を受けたり実験をしたりすることが多かったので、自分は何の変哲もない理系大学生であるという認識であった。しかし、解剖実習を通して、自分が将来医師になるために素晴らしい環境で勉強させていただいている医学生の身分であるということが強く感じられた。解剖実習は、医学生が教育者の監督の下でのみ行うことが法的に許可されていて、看護学生や薬学生はご遺体を観察することはあっても触って確認することはできない。手順にのっとってご遺体を開いていき、自分の見たいものを探求するという行為は、医学生の特権といえるのだ。
そのような貴重な体験から私が学んだことは、本来見ることの許されない面を見えるようにすることへの感動である。医師になる上で、人体の構造をマクロな視点で理解しておくことは非常に重要であるが、頭に入れておくべき構造のほとんどが皮膚より内側に隠されている。四肢に関して言えば、普段から皮膚の外から見えている血管や筋肉はほんの表面の一部にすぎず、より深部には太い動脈が走っていたり、神経が支配する筋肉を貫いていたりするということは、皮膚や結合組織を切って取り除いていかなければ絶対にわからない。臓器に関して言えば、肺のスポンジのような質感や、腸が腹膜の内側に美しく収まっている様子は、解剖実習を通して初めて理解することができたことである。特に私が驚いたことは、頭頚部での脳神経の走行がとても整頓されていたことである。たくさんの枝分かれをしてそれぞれの標的の筋や器官に分布をしている姿はまさに教科書に書いているものと同じであり、こうしてヒトの構造が正しく成り立っているから、我々は見たり、聞いたり、笑ったりするという動作をすることができるのだと感動した。 最後に、この解剖実習を通して、学んだことがもう一つある。それは、解剖実習をするにあたって必要な体力や覚悟は、医師となって患者を救っていくことへの準備に大きくつながっているということである。正直に言うと、6週間でかなりの体力を消耗し、手順通りに進まないことでストレスが溜まって精神がすり減ることも多かったので、想像していた以上に大変な実習であった。しかしこの実習によって得られた心構えや体力によって、医師になってからの長時間の勤務や大きな仕事にも耐え抜くことができるのではないかと思う。

解剖実習を終えて
2022年度 M2
2022年5月16日、解剖実習の初日。初めて入った解剖実習室の中は独特の緊張感が張り付めていて、少し肌寒さを感じた。実習のガイダンスを聞いたのち、巻かれていた布を丁寧に外して、初めてご献体と対面した。肌の色は血の気がなく薄く、少しホルマリンの刺激臭がした。肌に触れてみると、硬くひんやりと冷たかった。一見ただ寝ているようにも見えるご献体からは、近くで見れば見るほどに「死」を感じられた。
初めてメスを握り、ご献体の体に傷を入れるとき、私は何度もメスを入れるのをためらった。メスを使う恐怖心や作業が正しいのかの不安などもあったが、ためらってしまった一番の要因は、医師に向けて大きな一歩を踏み出す勇気がなかなか振り絞れなかったからだと思う。これをすれば自分が大きく変わってしまう、もう後戻りはできない人生の分岐点であるかのようにあの時感じられた。
実習が進むにつれ、ご献体の筋肉や血管、臓器などの様々な組織を観察し、日々多くのことを学ばせていただいた。百聞は一見に如かずとよく言うが、教科書やイラストで学ぶよりも実際に自分で剖出して観察する方がより鮮明に記憶することができた。約2か月という短い期間ではあったが、これまでのどんな授業よりも濃密で充実した時間を過ごすことができた。初めは怖がってゆっくりとしかできなかった剖出の操作も日に日に上達していき、だんだんと丁寧かつスムーズにできるようになっていった。
解剖実習を通して私は、人という生命の奥深さや神秘さを身に染みて感じることができた。ヒトの体の中には心臓があり、肺があり、筋肉や骨があることは当然のように知っていた。しかし、いざそれらを自らの手で剖出して初めて肉眼で見たとき、「あ、ほんとにこれらの臓器たちが私たちの体の中で働いているんだ」と実感することができた。いままで文字やイラストでしか知らなかった医学の知識たちが、急に現実味を帯びてきたように感じた。これから医師として相手していく人の体というのは、これほど複雑でこんなにも美しいのだと気づかされた。また、実習中に他の班のご献体を見させてもらったとき、同じ体の部位でも大きさや色、形が人それぞれ全く違って見えることに驚いた。中には、がんで肺が肥大している方や大きな動脈瘤がある方もいた。一人一人のご献体をよく見ると、その人が経験した痛みや辛さ、生きるために手術をした跡、懸命に生きてきた証を感じ取ることができた。医師として人を診るということは、その人の人生を診ることなのだとわかった気がした。
この2か月間の実習で学んだ知識、感じたこと、すべての貴重な経験を忘れることなく、これからも医学の勉強に励んでいきたいと思う。
最後に、実習の指導や準備をしてくださった先生方、そしてご献体くださった故人とそのご遺族に深く感謝申し上げます。

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