9月13日―鉄棒が前頭葉を貫いた日:Phineas Gageと「人格の脳」
1848年9月13日、米国バーモント州で、神経科学史に残る事故が起こりました。鉄道建設の現場監督をしていた25歳のPhineas Gage(フィニアス・ゲイジ)は、岩盤を爆破する作業中、火薬の爆発によって鉄製の突き棒を頭部に受けました。長さ1メートルを超える鉄棒は左顔面から頭蓋内に入り、前頭葉を通過して頭頂部から飛び出しました。驚くべきことにGageはこの重傷を生き延び、事故後にも会話することができました。現在、彼の頭蓋骨と鉄棒はHarvard Medical SchoolのWarren Anatomical Museumに保存されています。(Countway Library)
Gageを診療したJohn Martyn Harlow医師によると、事故以前の彼は有能で責任感が強く、計画を粘り強く実行する人物として評価されていました。しかし身体的に回復した後、その行動には明らかな変化が現れたといいます。気まぐれで頑固になり、周囲への配慮が乏しくなり、将来の計画を立てても持続できなくなりました。彼を以前から知る人々は、その変化を“no longer Gage(もはや以前のGageではない)”と表現しました。Harlowが1868年に詳しく報告したこの変化は、のちに前頭葉の機能を考える上で重要な手掛かりとなりました。(PubMed)
この症例が神経科学史で重要なのは、Gageが知的能力のすべてを失ったわけではなかった点です。会話は可能で、記憶や基本的な認知能力も保たれていました。それにもかかわらず、社会的に適切な行動、感情の制御、将来を見据えた計画などに変化が生じたと考えられました。こうした観察は、前頭前野が単純な運動や感覚だけでなく、意思決定、行動抑制、社会性、情動の調節といった高次脳機能に深く関与するという考えの形成につながります。19世紀後半にはDavid FerrierらがGageの症例を取り上げ、前頭葉が決して「機能のない領域」ではないことを論じました。
「事故によって人格が完全に別人になった」という有名な物語を、そのまま事実と考えることには注意が必要です。事故後のGageはさまざまな仕事を経験し、南米チリでは長期間、乗合馬車の御者として働いたとされています。近年では、事故後ずっと社会生活が破綻していたのではなく、時間の経過とともに一定の社会的再適応を遂げた可能性も重視されています。Gageの症例は、「前頭葉=人格の中枢」という単純な図式を証明したものではありません。むしろ、前頭前野と他の脳領域を結ぶネットワークが、判断、感情、社会的行動をどのように支えているのかという問題を医学に投げかけた症例と考える必要がありそうです。(Harvard Gazette)
一人の鉄道監督を襲った1848年9月13日の事故は、脳の損傷が身体機能だけでなく、「その人らしさ」や社会の中での行動にも影響し得ることを医学に強く印象づけました。 Phineas Gageは、現在も前頭葉と人間の高次脳機能を考える際に語り継がれる、神経科学史を代表する症例です。
The Return of Phineas Gage: Clues About the Brain from the Skull of a Famous Patient

