千里の馬は常にあれど、伯楽は常にはあらず
唐代を代表する文人・韓愈の「馬説」は、優れた才能を持つ人物が、理解者や適切な環境に恵まれなければ、その能力を十分に発揮できないことを説いた短い論説文です。「雑説四首」の第四篇にあたり、名馬と馬を扱う人との関係を通して、当時の人材登用のあり方を鋭く批判しています。
文章は、「世に伯楽あり、然る後に千里の馬あり」という言葉で始まります。伯楽とは、馬の能力を見抜く名人のことであり、千里馬とは、一日に千里を走るほどの優れた馬を指します。ここで千里馬は卓越した才能を持つ人物を、伯楽はその価値を見抜き、力を発揮する機会を与える指導者や為政者を象徴しています。
韓愈は続けて、「千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず」と述べます。優れた人物が存在しないのではなく、その才能を正しく見抜ける人物が少ないのだという指摘です。名馬であっても、普通の馬と同じように扱われれば、能力を知られないまま厩の中で死んでしまいます。才能は存在していても、評価されなければ、社会的には存在しないのと同じなのです。
さらに「馬説」では、千里馬が十分な餌を与えられないため、本来の力を発揮できなくなる様子が描かれます。必要な環境や支援を与えられず、成果を出せない状態に置かれながら、能力がないと判断されるのです。韓愈はこれを「才美、外に見れず」、すなわち才能のすばらしさが外に現れないと表現しました。
馬を扱う者は、適切な方法で馬を走らせることも、十分に養うことも、鳴き声の意味を理解することもできません。それにもかかわらず、「天下に良い馬はいない」と嘆きます。韓愈は最後に、本当に名馬がいないのではなく、「其れ真に馬を知らざるなり」と断じます。問題は才能を持つ側ではなく、それを見抜き、育て、用いる側にあるというのです。
「馬説」は、単に「才能には理解者が必要である」と説く文章ではありません。指導者には、才能を発見するだけでなく、必要な教育や資源を与え、適切な役割を任せ、本人の声を理解する責任があることを示しています。人材育成や教育、研究指導、組織運営においても、その意味は今なお失われていません。
「優れた人がいない」と嘆く前に、私たちはその人の能力を見抜き、発揮できる環境を整えているでしょうか。韓愈の「馬説」は、千年以上の時を越えて、才能を評価する側の見識と責任を静かに問いかけています。

世有伯樂,然後有千里馬。
千里馬常有,而伯樂不常有。
故雖有名馬,祇辱於奴隸人之手,駢死於槽櫪之間,不以千里稱也。
馬之千里者,一食或盡粟一石。食馬者,不知其能千里而食也。
是馬也,雖有千里之能,食不飽,力不足,才美不外見,且欲與常馬等不可得,安求其能千里也?
策之不以其道,食之不能盡其材,鳴之而不能通其意。
執策而臨之,曰:「天下無馬!」
嗚呼 其真無馬邪?其真不知馬也


