がん悪液質は、がんの進行に伴って筋肉や脂肪組織が失われ、体重減少、筋力低下、食欲不振などが生じる全身性の代謝異常です。栄養補給だけでは十分に改善しにくく、抗がん治療への耐容性や生活の質、予後にも大きく影響します。近年、この病態に腫瘍や免疫系だけでなく、腸内細菌叢が関与していることが明らかになりつつあります。
なかでも注目されているのが、腸内細菌が放出する「細胞外小胞」です。細胞外小胞は脂質膜で包まれた微小な粒子であり、内部にタンパク質、脂質、核酸、代謝物などを含みます。細菌そのものが腸管外へ移動しなくても、小胞を介して宿主の免疫細胞や代謝臓器へ情報を伝えられる可能性があります。
この分野で最も直接的な成果として、2026年にWangらが報告した研究があります。研究グループは、膵がん悪液質において、ヒト腸内に生息する細菌 Eubacterium rectale が減少し、その存在量が脂肪分解の重症度と逆相関することを示しました。さらに、同菌から精製した細胞外小胞を複数の悪液質モデルに投与すると、脂肪組織の減少や脂肪分解に関連する変化が軽減されました。
作用の中心となったのは、脂肪組織に存在するマクロファージです。E. rectale 由来小胞は、マクロファージのNF-κBシグナルを抑制し、炎症性の状態への偏りと炎症性サイトカインの分泌を減少させました。その結果、脂肪細胞における過剰な脂肪分解が抑えられたと考えられています。これは、「腸内細菌由来小胞―免疫細胞―脂肪組織」という新しい臓器間情報伝達経路を示した重要な成果です。
一方、この研究で主に確認されたのは、悪液質に伴う脂肪分解の抑制です。骨格筋萎縮、筋力低下、食欲不振、生存期間まで改善するかは、まだ十分に検証されていません。また、ヒトで示されたのは腸内細菌叢と病態との関連であり、細胞外小胞を患者へ投与した臨床試験ではありません。したがって、現段階では有望な前臨床研究として捉える必要があります。
2026年には、大腸がん悪液質を、腫瘍細胞、宿主細胞、腸内細菌が放出する小胞の相互作用として理解する「vesicular intersection layer」という概念も提唱されました。この仮説では、異なる起源をもつ小胞が、TLR、NF-κB、STAT3、FoxOなどの経路に収束し、全身性炎症や骨格筋のタンパク質分解を促す可能性が示されています。ただし、腸内細菌由来小胞が実際にヒトの骨格筋へ到達し、筋萎縮を直接引き起こすことは、まだ証明されていません。
また、腸内細菌由来小胞は常に有益に働くわけではありません。過去には、特定の腸内細菌由来小胞が骨格筋のインスリン抵抗性を誘導し、糖代謝を障害することも報告されています。小胞の作用は、由来する菌種や菌株、内部の分子構成、宿主の状態によって大きく異なると考えられます。
今後は、小胞のどの成分が作用を担うのか、腸管から脂肪組織や骨格筋へどのように移動するのか、腫瘍の大きさとは独立して悪液質を改善できるのかを明らかにする必要があります。さらに、便や血液から細菌由来小胞を正確に分離する方法や、投与量、純度、安全性を標準化することも重要です。EV研究の国際的指針であるMISEV2023でも、小胞の分離、同定、機能評価には複数の検証法と適切な対照実験が求められています。
腸内細菌由来細胞外小胞の研究は、腸内細菌叢の変化を全身の代謝異常へ結びつける新しい視点をもたらしました。とりわけ E. rectale 由来小胞は、がん悪液質に伴う炎症と脂肪分解を抑える候補として注目されます。ただし、研究はまだ始まったばかりです。今後、筋肉量や身体機能への作用、活性分子、体内動態が解明されれば、悪液質の診断や治療に新たな道が開かれる可能性があります。

参考文献
- Wang J, Maitiabula G, Liu S, et al. The Eubacterium Rectale Derived Extracellular Vesicles Alleviate Cancer Cachexia Induced Lipolysis by Inhibiting Macrophage Polarization. Journal of Extracellular Vesicles. 2026;15(5):e70293. doi:10.1002/jev2.70293.
- Hah YS, Lee SJ, Hwang J, Kwag SJ. The Vesicular Intersection Layer: A Framework for Cross-Kingdom Extracellular Vesicle Signaling That May Connect Gut Dysbiosis to Skeletal Muscle Wasting in Colorectal Cancer Cachexia. Cancers. 2026;18(3):522. doi:10.3390/cancers18030522.
- Choi Y, Kwon Y, Kim DK, et al. Gut microbe-derived extracellular vesicles induce insulin resistance, thereby impairing glucose metabolism in skeletal muscle. Scientific Reports. 2015;5:15878. doi:10.1038/srep15878.
- Welsh JA, Goberdhan DCI, O’Driscoll L, et al. Minimal information for studies of extracellular vesicles(MISEV2023): From basic to advanced approaches. Journal of Extracellular Vesicles. 2024;13:e12404. doi:10.1002/jev2.12404.
七月下旬のつくばには、夏が容赦なく降り注いでいます。気温は三十七度を超え、研究学園都市の広い道路も、筑波山を望む田園も、白い光のなかで揺らいでいます。昼下がり、街路樹の葉は風を待つように静まり、蝉の声だけが熱気をいっそう濃くしています。大学の構内では、建物から建物へ急ぐ人々が、わずかな木陰を選んで歩きます。冷房の効いた室内から外へ出た瞬間、巨大な熱の壁に押し戻されるようです。暑さの底にも、季節は静かに進んでいます。炎暑に耐える木々や草花を眺めながら、実習の進行や学会の準備を行うことにします。





