1951年12月11日は、DNA二重らせん構造の発見史において静かだが決定的な意味をもつ日です。この日に、ロンドン・キングズ・カレッジの生物物理学者モーリス・ウィルキンスは、ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所のフランシス・クリックへ書簡を送り、DNA構造研究から手を引くよう正式に要請しました。この出来事は、研究成果や学会発表ではなく、むしろ「研究を一時停止せざるを得なかった日」として記録されていますが、その後の歴史に深い影響を与える転換点となりました。
この書簡が送られた背景には、キングズ・カレッジ内部の複雑な人間関係と組織構造が関係していました。キングズではウィルキンスがDNAのX線回折研究を進めていましたが、人事配置の混乱により、1951年初頭にロザリンド・フランクリンが同分野の主担当として着任します。この配置はウィルキンスに十分伝えられないまま進み、研究の主導権をめぐる摩擦が生まれていました。一方、ケンブリッジ側では、若きジェームズ・ワトソンがウィルキンスの発表に強く影響を受け、クリックとともにDNAの空間構造モデル化に意欲を燃やしていました。
しかしキングズ側の上司であるJ・T・ランドールは、DNA研究はキングズの最重要課題であり、ケンブリッジが独自に先行することを好みませんでした。こうした状況の中で、12月11日付の手紙が書かれたのです。書簡の内容は概略すると次のようなものです。「DNAの構造解析はキングズの責任領域であり、ケンブリッジ側がモデル構築を進めることは適切ではない。したがって研究を中止してほしい。ただしこれは私の個人的な希望ではなく、組織的な決定を伝えざるを得ない立場にいる」というものです。
この日付が重要なのは、ウィルキンスがクリックに対し“DNA研究からの撤退”を公式に伝えた確実な史料が存在するためです。一次資料としては、米国国立医学図書館に保管されているThe Francis Crick Papers(書簡集)が決定的証拠です。また、ブレンダ・マドックス『ロザリンド・フランクリン』、ホレス・ジャドソン『創造の8日間』などの研究史でも、この書簡は明確に紹介されています。
この書簡によって、ワトソン=クリックが進めていたDNAモデル構築は一時停止状態となります。実際、1951年末〜1952年初頭のケンブリッジでは、モデル作りが表立って進められることはありませんでした。しかし皮肉にも、この“停止期間”が後の突破口を準備することになります。1952年の終わりにかけて、キングズでフランクリンが取得した高品質なB-DNAのX線回折像(有名な「Photo 51」)が得られ、彼女の計算とともにDNAの構造の核心が明らかになりつつありました。そして1953年初頭、これらの情報が間接的にケンブリッジ側に伝わることで、ワトソンとクリックは二重らせんモデルの構築に成功します。
このように1951年12月11日とは、「DNA研究を進めてよいか否か」という組織的・政治的な力学が表面化した日であり、科学的成果そのものが公表された日ではありません。しかし、この封じ込めの動きが結果的に、翌年以降の劇的な研究加速と1953年の歴史的論文へとつながる重要な布石となりました。おそらくウィルキンス自身も、この書簡が後世にこれほどの意味を持つとは想像していなかったでしょう。
科学史の観点から見ると、1951年12月11日は「DNA発見史の静かな岐路」として特筆されます。研究者の心情、所属組織の力関係、データの共有のあり方、そして科学の進展が一本の書簡によって左右される現実が、ここには凝縮されています。この日を理解することは、DNA二重らせんの発見を“科学的事実の積み重ね”としてだけでなく、“人が科学を動かす過程”として読み解く視座を与えてくれます。
