実存と信頼

『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」 「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど」 「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」(芦田愛菜さん)

芦田愛菜さん の言葉は、「信じる」という日常的な行為を、実存の問題として捉え直す思索です。私たちはしばしば「その人を信じている」と語りますが、彼女はその言葉の内実を問い直します。信じているのは相手そのものなのか、それとも自分が理想化した人物像なのかという問いです。ここには、人間が他者をそのまま受け取るのではなく、自らの期待や願望を投影して理解しているという洞察があります。

実存主義の立場から見れば、人間にはあらかじめ固定された本質はありません。Jean-Paul Sartre が述べた「実存は本質に先立つ」という命題の通り、人は行為を通じて自己を形成する存在であり、決して一枚岩ではありません。したがって「この人はこういう人だ」と決めつけること自体が、流動的な存在を固定化しようとする態度です。芦田愛菜さんの言う「見えなかった部分が見えただけ」という言葉は、人間の未決定性を受け入れる姿勢を示しています。裏切りとは本質の破壊ではなく、期待していた像が崩れた瞬間に生じる感情であることを示しています。

さらに彼女は、その見えなかった部分を含めて「それもその人だ」と受け止められる自分がいることこそが、信じることなのではないかと述べます。この視点は、他者の安定性に信頼の根拠を置くのではなく、自己の在り方にそれを求める点で実存的です。Søren Kierkegaard は、不安を人間の本質的条件と捉えました。不安は消し去るべきものではなく、自由を持つ存在であるがゆえに生じる必然です。他者が予測不能であるという事実は不安を生みます。しかしその不安から逃れるために理想像にしがみつくのではなく、不確実性を前提としてなお関係を選び続けることが、実存的な決断です。

人が「信じる」と口に出すのは、確信の表明というより、不安の裏返しなのかもしれません。サルトルが指摘した「悪い信仰」とは、自由や不安から目を逸らし、安定した物語の中に身を置こうとする態度です。理想の人物像や成功した未来像にすがることは、ある種の自己欺瞞にもなり得ます。芦田の言葉は、その自己欺瞞を静かに問い、信頼とは保証の要求ではなく、他者の不確実性を引き受ける覚悟であると示唆しています。

信じるとは相手の変わらなさを期待することではありません。それは、相手がどのような姿を見せても、自らの軸を失わずに関係を引き受け続ける選択です。実存主義的に言えば、信頼は他者の性質ではなく、自分の決断の持続です。芦田愛菜さんの言葉は、信じるという行為を他者中心の問題から自己の在り方へと転換し、不安を抱えながらもなお選び続ける人間の姿を示しています。

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