榊 俶(さかき はじめ)は、明治期日本において精神医学を近代医学の一分野として制度化した先駆的医師であり、東京帝国大学医科大学精神病学講座の初代教授として、日本精神医学の出発点を築いた人物です。1857年に生まれた榊は、近代国家形成期にあった日本において、西洋医学、とりわけドイツ精神医学を基盤とする新しい精神病学を導入し、精神疾患を道徳や人格の問題ではなく、脳と神経の病態として理解する視点を確立しました。
榊は医学教育を受けた後、ドイツに留学し、当時最先端であった生物学的精神医学や精神疾患の臨床的分類、観察重視の方法論を学びました。この経験は、帰国後の教育・研究姿勢に決定的な影響を与え、日本における精神医学を、経験論的・自然科学的学問として再構築する基盤となりました。1880年代後半、東京帝国大学に精神病学講座が設置されると、榊はその初代教授に就任し、精神医学が内科や哲学から独立した専門領域として大学制度に組み込まれる道を開きました。
榊の精神医学は、精神症状を詳細に観察し、脳の構造や機能との関連を重視する点に特徴があり、解剖学や神経学と密接に結びついていました。また、大学での教育だけでなく、当時の精神科医療施設と連携し、臨床と学問を往還する体制を整えた点も重要です。これにより、後の大学精神医学教室と附属病院精神科の原型が形づくられました。
しかし、榊の生涯は短く、1897年に40歳前後で夭折します。そのため、研究成果や著作は限られていますが、精神医学を「医学」として日本社会に定着させた功績は極めて大きいものです。榊が築いた制度的・学問的基盤の上に、呉秀三ら後継者が社会的・倫理的視点を加え、日本精神医学は発展していきました。榊俶は、日本における精神医学と神経科学の源流をなす存在として、現在も医学史上重要な位置を占めています。
榊 俶に関する逸話は多くは残っていませんが、明治期の精神医学草創期という文脈の中で、彼の人物像や学問姿勢をうかがわせる興味深いエピソードがいくつか伝えられています。
1.「精神病は道徳の問題ではない」と語った教授
榊が東京帝国大学で精神病学を講じた当時、精神疾患はなお「人格の弱さ」「道徳的退廃」と結びつけて理解されることが一般的でした。その中で榊は、講義や臨床指導において一貫して、精神疾患を脳と神経の病態として扱うべき医学的対象であると強調したと伝えられています。この姿勢は、学生にとっては斬新であると同時に、社会的偏見と正面から対峙するものでした。
2.ドイツ留学で受けた衝撃
榊はドイツ留学中、精神病院における体系的な観察記録と分類、そして臨床と病理を結びつける姿勢に強い感銘を受けたとされています。当時の日本では、精神疾患を長期的に観察し、記述する文化はほとんど存在しませんでした。帰国後、榊が症状の経過観察や記載を重視した教育を行った背景には、この留学体験があったと考えられます。
3.解剖学と精神医学を分けなかった人物
榊は精神医学を独立させつつも、解剖学や神経学との連続性を強く意識していました。精神症状を語る際にも、脳の構造や機能への言及を欠かさなかったとされ、「精神医学者である前に医学者であれ」という姿勢を学生に求めたと伝えられています。これは、精神医学が神秘化・哲学化されやすかった時代において、極めて実証的な立場でした。
4.制度づくりに追われた静かな努力家
榊は華々しい論争や著作よりも、講座の設置、教育体制の整備、臨床との連携といった制度づくりに多くの時間を割いた人物でした。そのため、後世に残る著作は多くありませんが、同時代人からは「実務に誠実で寡黙な学者」であったと評されています。短い在職期間で精神医学を大学制度に根づかせた背景には、この地道な努力がありました。
〇呉秀三の生涯とその門下生(日本精神神経学会)
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