筑波大学の学生宿舎は一の矢・平砂・追越・春日の4地区で構成され、約4,000人の単身用と180世帯ほどの家族用を収容する大規模な宿舎群です。かつては1・2年生のほとんどが入居しましたが、現在は1年生のみが中心となっており、日本の大規模大学では珍しい形態とされています。管理は大学ではなく一般財団法人筑波学都資金財団が担い、学生自治はなく、各地区の管理事務所と「コミュニティリーダー」によって日常運営が行われています。年末に、某宿舎の前を通ったところ、留学生の方が20人ほど集まってにぎやかな様子が見えました。5月にやどかり祭もありますが、毎年この時期は某実習があってバタバタしています。本学の学生宿舎について調べていたところ、筑波大学前身の東京教育大学の桐花寮について、朝永振一郎先生の記述がありました。
下記は、朝永振一郎先生が、桐花寮(東京教育大学)について記述した文章です。
ボロ家もまた楽し 教育大学新聞 第315(1959/1/25)号所載
うちの大学はいま本館建設のさいちゅうで、これができると少しは立派になりそうだが、今までは日本有数のきたない大学だったと思う。少なくとも東京では最もきたない大学であった。特に桐花寮という寄宿舎は悪名高いものであって、黒沢明監督の、映画「どんぞこ」(管理人注・正しくは「どん底」です)の場面そっくりで、こういうところに住む学生はたまったものではないかもしれない。しかし、学生諸君にはお気の毒ながら見物して話のたねにするのにはなかなか乙なものであって、今年度中にとりこわしになるのが、ちょっとおしいような気もする。
むかし京都の中学校にいたとき、この学校は日本最古の中学だといって威張っていたが、そのぼろさ加減も日本最高であって、床にはいたるところに穴があり、天井は波のようにうねっていて、雨が降ると、雨が漏る、というよりも、あたかも天井裏に雨樋でもしかけてあるかのように、天井から滝がふってきた。悪童たちはよく教室の中で傘をさしてふざけたものである。高等学校に入ると、その寄宿舎がまた相当なもので、おまけに学生たちの間に部屋をきたなくする趣味が流行していたので、そのきたなさに環をかけた有様であった。
こういう環境で教育されると、どうも、あまりきれいな建物の中に入ると窮屈で、そして机の上をきちんと整理したり、身のまわりをちり一つないようにする、などということは面倒くさくておっくうだというような悪い習慣がついてくる。そんなわけで、いつかアメリカに行ったとき、あまりにもちゃんとした家にいて、雨がふっても天井で雨漏りの音一つしないのが物たりなく味気なく、ついにホームシックにかかった。
雨が漏ったか何かで天井や壁に妙なしみができていると、病気などしたとき退屈をしのぐのになかなか役に立つ。しみを見ているとそれがいろいろ不思議なけだものに見えたり、ドーミエの絵に出てくるようなグロテスクな人物の顔に見えたりする。数年まえ、ドイツに旅行したとき、フランクフルトで病気になって十日ばかり大学病院に、入院していたことがあった。この病院は空襲を受けて大ぶんいたんだ建物で壁のペンキが古くなって、そこにはいろいろと入りくんだ曲線のひびわれができていた。この曲線が、見ようによって、女の裸像に見えたりして結構たのしめたものである。
こういう具合に、ぼろ家というものはなかなかいいものだが、寒い冬、すきま風の入ってくるのが欠点である。アメリカにいたときの家のように、スチームが通っていて、洗面所ではいつでもお湯が出るというようになっていて、その上で、適当に雨が漏って、壁に模様ができている。そうしてどこからともなく便所のにおいとか、かびくさいにおいとかがほのかにただよってきて、その上に欲をいうとすきま風の入らない程度に壁がやぶれていて、そこから晩秋の夜など、こおろぎか何かが迷いこんできて、ころころとなきはじめる。こういうのが理想のすみかである。
だからといって、せっかく新しくでき上るわが大学の建物をよごしたりしようというのではない。人工的にそういうことをするのは邪道である。建物のよごれというものは、そこにいた人人のにおいが長い間にしみこんだようなもの、その建物の歴史をひそかに物語るようなものでなくてはならない。そしてそれにも限度があって、桐花寮のように赤痢の発生するような建物はいつまでも残しておくわけにはいかない。そこで学長は予算かくとくに努めなければならないし、学生諸君には、大学の建物を大事にして下さい、といわねばならぬことになる。



